お知らせ

生き残るために

2023.08.22

苗木城跡
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おはようございます。今日も暑く午後は不安定な天気です。洗濯物を外に干しにくいですね。
車で中央道中津川インターを降り、257号線を下呂方面に進むと、ほどなく右手に苗木城跡が見えます。木曽川の断崖絶壁に位置し、現地からは眼下に木曽川と恵那市が一望できます。「天空の城」としてよく知られており、散策路もしっかりしていますので、季節が良くなったら立ち寄るのも良いかもしれません。中津川、恵那は名古屋からも比較的近く、博物館(鉱物)、ラジウム温泉、名物(栗きんとん)もあり楽しめる場所だと思います。
実は苗木藩は「廃仏毀釈」で有名な地域でもあります。【苗木藩では、明治3年(1870)に領内の寺院・仏像・仏具・経典、および個人の位牌も含めて、破棄または消却する政策を断行しました。 このような仏教を排斥した苗木藩の廃仏毀釈運動は、全国的に見ても類を見ないほど徹底的に行われました。 この廃仏毀釈の運動は、神道を重んじ、国民の思想信仰統一を図った明治維新政府の一連の政策に追従する形で、平田派国学者であり、 大参事という藩の要職にあった青山直道が中心となって実施されたものです。】
なぜこのような極端な政策をとったかは「苗木遠山資料館」で詳しく理解することができます。財政難が大きな理由でしたが、揺れ動く明治維新の風にのり、何とか生き残ろうとした藩の命運をかけた手段でした。恵那では今も神式による儀式を行っている家庭が多く、庶民の生活にも大きな影響があったことがうかがえます。私たちの知らないところで、日本にはまだまだ謎や不思議がたくさんあります。海外も良いのですが、日本人である以上自分たちの祖先や歴史を学び、誇りをもって自国を語れる人間になりたいですね。行ってらっしゃい。

カテゴリ:歴史

沖縄本土復帰50年

2022.05.24

1972年5月15日沖縄が日本に返還されてから今年で50年が経ちました。太平洋戦争末期の沖縄戦以降、住民の皆様は言葉にできない「哀しく、苦しく、悔しい思いや経験」を数々してこられました。本土で過ごしてきた私たちは当事者ではないため、心の底から思いを共有することはできませんが、沖縄で起きてきた事実をよく知り理解しようと努めることが必要です。世論調査でも米軍基地の問題、事件事故、生活について、沖縄県民と本土民の認識には差異がありました。一国民として「他者の靴を履く(ブレイデイみかこ著)」ことに思いを馳せ、考えていきたいと思います。
沖縄はその立地ゆえの数奇な歴史をたどってきました。大国の唐、薩摩藩、明治政府そしてアメリカ占領下等統治者が変わり翻弄されながらも独自の文化を生み守ってきた歴史があります。唐の冊封(さくほう)体制下、「踊り奉行」なるおもてなしの芸能役割まで作り、戦争を避け中国との関係を良好に保つ知恵を使い、一方薩摩、明治政府とのやり取りについても平和裏に譲歩しながら、琉球処分で王朝統治の幕を閉じました。
そのような歴史をたどってきた沖縄が、最大の苦難である戦争の犠牲になり、太平洋戦争唯一の国内地上戦の場となったことで、9万人(日本全戦没者19万人)もの一般市民の死者を出しました。戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争に沖縄の基地から米軍機が飛び立ち、同基地面積は本島だけで総面積の15%、日本全土の70%ほどが沖縄県に集中しています。基地があることで米軍の事件事故は後を絶たず、騒音問題にも苦しめられているのが現状です。また、本土人の心に潜む国内の南北方面民族に対する優越意識は、古来からの由緒ある伝統を卑下したうえ、戦前から国は「うちなーぐち(沖縄地方の方言)」の使用も禁止し、皇民教育を押し付けてきました。そのような政策により大都市では、居住や就職についても拒絶を受け、生きる権利すら侵害を受けてきました。
荒れ果てた地、多くの犠牲者を出した沖縄の人々は、それでも苦難の歴史をバネに強く立ち上ろうとしました。「命(ぬちどぅ)宝」、「なんくるないさー(あるべき様に自然になるものさ)」他にも強さを表す「ウチナーグチ」は数多くあります。沖縄の人々の心に生きる「芸能の伝統」は、小那覇舞天、照屋林助、笑築過激団 (しょうちくかげきだん)など苦しさを風刺と笑いに変え民衆を勇気づけてきました。また、音楽においてもコザでアメリカ兵相手のロックグループ(紫、マリー・ウィズ・メデューサ)が活躍しましたが、戦場へ向かう兵士の精神状態を満たすための演奏は、罵声の中、生きるか死ぬかの真剣勝負だったようです。アメリカ文化をたくましく取り込みながら、その後沖縄アクターズスクール(スピード、ダパンプ、安室奈美恵 他)はポップカルチャーとして日本全土に深く浸透し、漸く自身のアイデンティティー(日本人、沖縄人)である島唄(ビギン、夏川りみ)にたどり着いたのです。その力の源は反骨精神の持続に他ならなかったと思います。「武力使わず自然を愛する 自分を捨てて誰かのため何かができる(モンパチ 琉球愛歌)」反発する心をバネに、歌と笑うことでたくましく伝えようとする、そんなウチナンチュのぶれない強さに学び、我々ヤマトンチュもできることをしなければなりません。
米軍基地の存在が安全保障上必要不可欠であるならば、せめて全県全国民が平等に負担を負うべきです。自分の居住区に戦争遂行集団が出現することは、今問題になっている敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有する場所として攻撃の対象になることでもあります。現代から過去を見通しても、核保有、NATO加盟、武器供与なども一歩間違えば、考えられない暴挙を行う国との軍事的緊張を高め、命を脅かされる確率が高まることは誰もが分かることです。中国の覇権を警戒するアメリカおよび日本政府にとって、戦略的見地から南方に位置する沖縄県、離島が基地として好都合であることは周知のことですが、日本国憲法の三大原則(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を堅持し、少しでも戦後の沖縄県民の痛みを理解し、分かち合っていく意思を具体的政策や文化で示していかなければなりません。
「空の青さと海の青」、美しい自然に恵まれたトロピカルな島、癒しの島には、今に至る血のにじむような苦難の歴史があったことは事実です。政策を市民の生活目線まで掘り下げ、納得いくものとするため、私たち一人ひとりが「癒しを与えられる」だけではなく「安心と安全を与える」立場へ意識改革が求められているのではないでしょうか。復帰から50年も経てしまいましたが、今からでも変えられるはずです。代表者である政治家を選ぶのは私たち一国民なのですから。そのためにもプロパガンダやフェークニュース、国家の意図的扇動に惑わされることなく、正しい知識の元、自律した判断力を学ばなければなりません。

カテゴリ:歴史

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