発達をひた走れ!
2026.04.19

たんぽぽ組さん、れんげ組さん、すみれ組さん、そしてつくし組さん、月齢が低いほど「なかま」とのやり取りは未熟度も増していきます。コミュニケーションの手段ややり取りについては、本園の子どもたちはまだまだ「一方通行」が主体です。慣れてくれば少し間をおいて様子を見ることもできるようになります。
つくし組さんも発達は様々ですから「自己中心性」が発揮され、強引に遊びに入っていくこともよくあります。たんぽぽ組になると唐突に入ってきてしまう年少の子に違和感も感じていますが、多くの子は「小さいからしかたないなー」のような雰囲気で、軽く制止する程度です。
大きい子のあそびは小さい子にとっては、「未知なこと」、「不思議なこと」、「やってみたいこと」に溢れているのだと思います。自分もやりたいと思えば、一直線にやりたいことに向かっていくパワーは見事です!この時代はこれくらいの方が良いのではないかと考えます。
発達の「そのとき、その瞬間」を思い残すことなく突っ走る!とでもいうのでしょうか?やり残しがなければ心も体も不完全燃焼はないものと考えてよいと思います。私たち大人もですが、何かしら「心残り」があると、達成感が得られにくいように感じます。
「やるべき時はトコトン」、懸命にその時、その場、を生き抜きたいものです。子どもたちを視ていると、自己の限界も感じることなくヘトヘトになるまで遊びきろうとします。「もうへやにはいろうか?」、「いやまだ これから」、「じゃあ あといっかい?」、「ダメあと10回!!」、こんな会話を繰り返しながら、本人は気が済み納得するまで遊びます。
今の時期にしかできないことですね!うらやましくも感じますが、「今しなければならない!」、だからこそ自分の力になっているようにも感じます。給食の時間もあるため、限りなくとはいきませんが、まさに「交渉」?、トランプ流にいえば「ディール外交」でしょうか?保育者側がかなり譲歩するのが、乳幼児の世界における常識とも言えます。疲れを知らない子どもは強気です!
カテゴリ:発達
ホルムズ海峡から考える
2026.04.19
きな臭い話も
みかたをかえれば
人と人とのつながりにかわるおはようございます。
「ひらいた ひらいた なんの花が ひらいた れんげの花が ひらいた ひらいたと おもったら いつのまにか つぼんだ
つぼんだ つぼんだ なんの花が つぼんだ れんげの花が つぼんだ つぼんだと おもったら いつのまにか ひらいた」
古くから歌い継がれている「わらべうた」です。子どもたちが手をつなぎ輪になって歌詞に合わせて、輪を縮める、広げるをして動きと歌を楽しむあそびとして親しまれてきました。最近ではこのような素朴な楽しさを味わえる「あそび」を見かけなくなってきました。「勝ち負け」、「ルール」があることだけが「あそび」ではありません。このような情緒的な歌と動きを楽しむことができるのが、また子ども心の素晴らしさでもあります。古いから、分かりにくいから、面白みを感じないからといって、現代の大人の価値観であそびもせず素通りしてしまうことは、とても残念でなりません。輪を縮めるも広げるも、「手をつなぐ」といった最低限の約束の中に、ひとり一人のやり方の多様さに個性が現れます。そこを楽しめるのがこの遊びなのです。この深みを感じ取れる大人でありたいと願います。少なくとも子どもたちはそのことをつないだ手の感触と全身、そして眼から感じ取っています。その力こそ心と身体の成長の種となって理屈なく体に根付くのです。
ホルムズ海峡の話でしたね?でもそんなことばかりにクヨクヨはしていられません!さっぱりと気持ちを切り替え笑顔で過ごす1日としなければ!
カテゴリ:発達
自分作りの真っ最中よ!
2026.03.01






自我を作っている発達段階の子どもたちは、「あげる」、「もらう」、「する」、「してもらう」等、対極に位置する行動に関し、複雑な心が働いています。
「あげるのはいいけれども、2つだけだよ!」、「もっとほしいわ、2つだけじゃいやだわ!」、「はい たべさせてくれる?」、「いまはじぶんでつくっているのよ!だからあげないわ!」等々、過去に経験したことに、相手は必ずしも素直に応じてくれるわけではないため、当然ですがお互いの心に波風が立ちます。
そんな状況に戸惑いを感じながら、仲間とのやり取りで自分を試している姿が、あちらこちらで視られます。今の段階は「必ずしも期待通りではない」相手の言動に右往左往し、「おかしいな?」、「どうしてかな?」を感じ取ることが出来れば、それでよいと思います。
ドングリをあげるあげない、わたすもらうの場面が、お互いの思いがうまく合えば「笑顔」になり、合わなければ「悲しいさや怒りの表情」となって相手に発信されます。同じ園庭活動の中で、人が変わればそれぞれの発達段階や性格によって、上手くいったりいかなかったり、そんな時間を重ね過ごしていくことで特定の相手は見つかっていくものです。
「誰とでも仲良く」は一見良さそうに思えますが、実は「嫌な思い」の経験を省いてしまうことを勧めているようなものです。子どもは長い人生を歩き始めて間もないですが、ひとつ一つの経験を感じていくことが必要です。もちろんその経験の中には、本人が嫌がることも含んでいます。
よくありますよね、「あの人は物事をはっきり言うが、裏表はない」、「彼らは徒党を組んで私を陥れようとする」、自分自身をしっかりと持っていれば前者となり、自信がなければ後者になってしまうこともある。幼い頃は成長する過程の中で、決して後者にならないように「自己選択」、「自己決定」を行うことを体験していくことが必要です。
その選択がたとえ間違っていたとしても、相手から返ってくる反応で相手の気持ちを慮り、いつの日か理解できることを期待し、大人はあえて子どもが嫌な思いをしたり、泣いてしまう場面が予測されていたとしても、大人の力で避けてしまえば子どもはその小さな大切さに気付くことが出来ないのです。
子どもは間違いを犯しながら「正しさ」にたどり着きます。それは物事だけではなく、人同士も同じことなのです。いえむしろ人と人の関係こそ失敗が必要です。間違ったと気づけば修正していけばよいのです。この曲がりくねった道を歩む勇気こそ、子どもたちの心に育てていくことが大切です。この積み重ねでやっと「人間らしさ」が芽生えていくのです。
カテゴリ:発達
特定の二人 自然
2025.11.09






行き当たりばったりに見える子どもたちの行動も、実はそれなりに意味があり、その道程を追っていくとおもしろさが見えてくることもあります。もちろん本当の思い付きでそれ以上あそびが膨らまないことも多々ありますが・・・・。
とにかく思った通り自分の身体と頭をフル回転させながら、行動の結果で考え直していることは確かだと思います。今日の写真を見ても所々にそんな様子がうかがえます。
例えばトラックに花りんを積みおもむろに車を走らせますが、どこっていう目的地や「こうしたい」という目的はなかったと思います。ですが頭の中には映像や実際にダンプカーが、土砂を満載した荷台を持ち上げ落とす場面を記憶しているのか、その様子を再現したい気持ちがあるのだと想像します。
砂場で型に詰められた砂は、きっとたこ焼きか何かしらお店で売られるものなのでしょうか?だからこそプーさんハウスをお店に見立てお店屋さんを楽しもうとしているのかもしれません。その事を実感するために、砂場ではなくプーさんハウスである必要があったと思います。
ともだちと二人で手をつないでいる姿(特定の2人)は、右手(利き手)であるいは仲間を自分の右側に置きたいのか、決まった形を作ろうとしています。「こうでなければ」といった自分中心の視方ですが、お互いがその行動を認め合えるからこそ「特定の仲間同士」と言えると思います。他者を受け入れていく初歩の段階は、この「特別な2人(気が合う、許しあえる関係性)」でないと育たないものがあるのです。
そしてバッタ、カリン、キンモクセイ等の様々な自然を通じ、命に触れていく機会がたくさん写し出されています。私たち人間ももちろん生き物ですが、人間以外にも「命」があることを感じ、共に地球で生活している原点を肌身で理解していく機会を得ています。人間だけがすべてでないことを知ることは、例えばミツバチがいなくなれば、果物や野菜を食べられなく日が来るのを、いつの日か理解することに繋がっていくのです。
このように子どもたちはいかにも偶然の毎日の中で、実は必然的な出来事に出会い、様々な人間性会、生物界の約束や順番、弱肉強食等を学んでいるのです。だからこそこれらの機会を保障する必要があるのです。子どもたちに小さくても「豊かな自然環境」を用意することは、何もないのっぺらなグランドを準備することよりも、数百倍大切なことであると考えています。
自然の一部である人間は、在りのまま、たとえ作られた自然であったとしても、自然を感じながら生きることが出来る環境に過ごすことで、他者、他の生き物を尊重する心を自らの中に育て、本来持っているべき人間性を保ち続けることが出来るはずです。その機会が少なくなっている人類は、自らでその危機を招いているとも言えます。
カテゴリ:発達
子育てと発達
2025.11.03
子どもたちの成長は早いものです。あっという間に過ぎ去ってしまう乳児期をより大切にしたいと思うばかりです!
大人からすれば簡単なことも、子どもたちにとっては冒険だと思います。たとえば「あるく」、こんな当たり前の動作さえ、一歩一歩が喜びの瞬間であるはずです。だから「もう一歩すすみたい」のです!その一歩の感動を一緒に分かち合っていきたいものです。
発達は子ども自身にとっては「未知との出会い」、「嬉しさの体験」に他なりません。心も成長してくるとその中に「不安」や「疑い(だいじょうぶかな?)」などの感情が芽生えてきます。そこを一つひとつ大人の手も借りながら進めていくことで「安心」して冒険を楽しんでいくことができます。
「あるく」、「ける」、「いれる」、「すくう」など、自分自身の身体そのものを使う動きと、道具を媒介し獲得していく動きがあり、それは並行して行われていきます。常に発達しようとする心身は、年長者や大人の「砂の扱い等々・・」高度な方法(大きなバケツに砂を入れひっくり返す)にとても大きな関心を示します。
そのことが心の中で大きな「憧れ」となって自分自身を育てる種になります。「あんなふうにやりたいなー」、「ステキだなー」、このような環境を意図的に作り出すことも、保育園という様々な年齢が過ごす施設の役割でもあるのです。
もちろん「自己中心的時代」、特に乳児期は親御さん、ご家族様との関係性を充実することが第一に優先されなければなりません。ですが発達の特徴(平行して進んでいく)を考えると、「自己中心的時代」にも、次の発達段階の要素が環境(タイヤで遊ぶ、砂場であつまる集団)として存在することも必要に感じます。
3歳まで自宅で過ごすお子様が、時には児童館や子育て支援施設、本園のような「園庭開放」に行くことを勧められるのも、「子育てが孤立する要因」となる大人都合を予防するだけではなく、子どもにとって関わる同世代(同じくらいの発達の仲間又は近い)の存在が必要だからです。もちろんお母様の家庭生活が孤立することなく安定していることが、最も大切な前提条件であることは代えられません。
大人からすれば簡単なことも、子どもたちにとっては冒険だと思います。たとえば「あるく」、こんな当たり前の動作さえ、一歩一歩が喜びの瞬間であるはずです。だから「もう一歩すすみたい」のです!その一歩の感動を一緒に分かち合っていきたいものです。
発達は子ども自身にとっては「未知との出会い」、「嬉しさの体験」に他なりません。心も成長してくるとその中に「不安」や「疑い(だいじょうぶかな?)」などの感情が芽生えてきます。そこを一つひとつ大人の手も借りながら進めていくことで「安心」して冒険を楽しんでいくことができます。
「あるく」、「ける」、「いれる」、「すくう」など、自分自身の身体そのものを使う動きと、道具を媒介し獲得していく動きがあり、それは並行して行われていきます。常に発達しようとする心身は、年長者や大人の「砂の扱い等々・・」高度な方法(大きなバケツに砂を入れひっくり返す)にとても大きな関心を示します。
そのことが心の中で大きな「憧れ」となって自分自身を育てる種になります。「あんなふうにやりたいなー」、「ステキだなー」、このような環境を意図的に作り出すことも、保育園という様々な年齢が過ごす施設の役割でもあるのです。
もちろん「自己中心的時代」、特に乳児期は親御さん、ご家族様との関係性を充実することが第一に優先されなければなりません。ですが発達の特徴(平行して進んでいく)を考えると、「自己中心的時代」にも、次の発達段階の要素が環境(タイヤで遊ぶ、砂場であつまる集団)として存在することも必要に感じます。
3歳まで自宅で過ごすお子様が、時には児童館や子育て支援施設、本園のような「園庭開放」に行くことを勧められるのも、「子育てが孤立する要因」となる大人都合を予防するだけではなく、子どもにとって関わる同世代(同じくらいの発達の仲間又は近い)の存在が必要だからです。もちろんお母様の家庭生活が孤立することなく安定していることが、最も大切な前提条件であることは代えられません。
カテゴリ:発達
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