お知らせ

高校野球児と政治家

2024.03.27

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おはようございます。
春の選抜高校野球は18日、大谷、山本、ダルビッシュ等日本人選手が活躍するメジャーリーグは20日にそれぞれ開幕し春を告げています。能登半島地震で被災した地域の出場高等学校(日本航空石川・星稜・敦賀気比)には、ぜひ勇姿を見せ被災した方々を励ますプレーを期待したいと思います。勝ち負けではなく「頑張っている姿」これだけでも心の苦痛に耐える人々の大きな支えになるはずです。







さて、話は変わります。これだけ悲しみを生む確率が高い地震国日本、しかも想定を上回る被害を出しているにもかかわらず、政府は電気エネルギーの供給源を危険な原子力に頼っています。核廃棄物の最終処分方法は絶対に安全とは言えません、クリーンエネルギーを謳い地球温暖化を防いだとしても、何か起こってからではどうにもならないことを学習したはず(原子爆弾被爆国、ビキニ第五福竜丸被ばく、福島第一原発事故)にもかかわらず見直しはしないようです。おかしいです。さらに戦闘機の協働開発、武器輸出は三原則を体よく離脱し、戦争に一歩近づく法案です。AI兵器はますます発展し、人間の手を介すことなく自律さえしようとしています。自国を防衛することは必要ですが、武器無き闘い(外交)に徹すべきです。
また、子育て支援政策も本当にすべての育児者支援になっているかと問い直せば、どちらかと言えば両親ともが正規雇用者である家庭に偏っているといえます。経済主体では真の支援にはなりません。「日本の働く女性幸福度は?(中日3.20生活面)」では、日本では働く時間が長くなるほど、幸福感は減少傾向にあります。一方フィンランドでは共働き家庭で女性が働く時間が8時間までは幸福度が増しているそうです。国民性にもよりますが、「家事の夫婦共同」と「余暇の過ごし方(自然に親しむ課外活動が日本の5倍)」が充実しており、ワークライフバランスが整った好循環があるからが理由です。
日本人ならではの良き伝統は、時代にそぐう形で残し、机上の少子化対策ではなく、庶民の生活に根差した政策を立案すべきです。政治資金裏金問題、そして知らぬ存ぜぬを通す幹部、次元の低い政治姿勢に期待感は薄いですね。社会問題を考えているといつもたどり着く結論です。道義ある国として日本らしさを主張し、それでもって責めを負うのであれば、これは致し方ないこと。これからを生きる日本人は、たとえ世代が移り変わったとしても残る「国土」に対して、信念をもって生きていく責任があります。そのような気持ちを背負い子どもたちに伝えていける大人であらなければなりません。国家と日本人を憂い自分から変わることが必要です。行ってらっしゃい。

カテゴリ:私見

統一地方選挙

2023.04.26

おはようございます。今日はまとまった雨が降るようです。周期的に変わる天気も春らしさですね。
統一地方選挙が終わりました。投票率は前回を下回る結果となり、政治に対する関心の低さに恐ろしさを感じます。こうして知らない間に、現政権は自分たちの都合のいいように権力をゆるぎないものとしていくのです。学術会議、原発、敵基地攻撃等、代表議員制民主主義は、国会という一部の人間の採決によって、法案が次々と可決されていきます。多くの検討事項を束ねて法案提出し、十分な議論も為されることなく、法律として決定される過程から、一般市民に災いを被りかねない事態が懸念されます。その時となってはもう遅いと思います。
権威主義国家(ロシア)は、とうとうネットを通じて召集令状を発出するようになっています。最新技術が国民に対する義務の強要として利用されることで、なお一層権威主義が我が物顔となっていくことでしょう。人間は「権威欲」、「金銭欲」、「食欲」、「性欲」において限度を超えてしまうと、破滅への引き金を引くこととなります。その状況に巻き込まれる前に、ひとり一人の力を元に改善していかなければなりません。特に多くの人を巻き込みかねない「権威欲」については、民主主義においてもよくよく監視の目を向けていかないと、権力者の好き勝手になってしまいます。
立候補者不在の無投票も目立ちます。原発のある地域でもこのような状況が発生し、地元市民の考えが反映されていない原発使用期限延長、推進はおかしな話だと感じます。議員となるには現行ではお金もかかります。しかしこのような時こそSNSなどの現代技術を使用し、今までにない方法で市民の代表者となる機会も作れます。(実際に行っている事例もある)私自身もスマフォや通信手段の高度化には中々ついていけず、対面が大切という考えが優先する世代ですが、学ぶ必要性は大いに在りと認めます。機会を見つけひとつ一つの問題点を挙げ、自分事として一緒に考えてみましょう。行ってらっしゃい。

カテゴリ:私見

犬の権利

2021.07.14

昨日、一昨日とテレビのニュースや新聞で鈴鹿の信号電柱が、犬の尿素によって腐食し突然倒れたという報道がありました。事実だけを知れば「これは大変だ!」もし通行人や車にあたっていたらと恐怖を感じます。私が疑問に思ったのは、このことに関する警察、獣医師のコメントと報道の在り方です。「電柱にはかけないでください」、「排尿は家でさせてください」。マーキングは犬などが縄張りを主張するために備えている本能です。このコメントは犬の本能を否定しているものと感じました。犬は縄文時代より家畜同様人と深いつながりを持った生き物です。人間と共に過ごしてきた歴史があります。時代の流れの中で人は犬の品種を改良したり、本来屋外で生活するはずの機能を備えている動物を屋内の安定した環境の中で生活させたり、服を着せたり、はたまた色を塗ったり。ここまで行くと人間の一方的な想いの中に生き物を当てはめようとしているとしか思えないのです。そう言う私もインコやメダカを屋内で飼ったりしてきました。どこまでが許されることなのでしょうか?そもそも人間が決めてしまってよいのでしょうか?では植物は?様々な疑問が心をよぎります。しかし、今回は人間のマナーの問題としてとらえているのみで、犬の権利に触れていません。他に方法はないのでしょうか?よく見かけるのは水の入ったペットボトルを持った方が、犬のマーキングした箇所によく水をかけておられる姿です。やるべき方はしっかりやってます。同じ個所にマーキングするのも動物の習性です。支柱にかけられても尿素が浸透しない作りにするとか、人間側が異種である犬の権利を守り、共に快適に過ごす方法や考え方があるのではないでしょうか。また、報道機関も生命に関する見方、発言は慎重にすべきです。正否を報道するのではなく、正否を考えられる参考意見や対極的見方を提示し、視聴者に考えてもらう姿勢も必要ではないでしょうか?影響力の大きいマスメディアだからこそ注意が必要です。私がこの文章を書くことも少しく影響があることと思います。私も含め責任ある言動が必要であると自戒を込めお伝えさせていただきました。

カテゴリ:私見

生ずること滅すること

2021.07.12

おはようございます。大そうなテーマを掲げましたが、まだまだ人生を語るほどには生きていません。思えば高校生のころ、体育祭、文化祭の終わりにフォークダンスを行い、気になる人と手をつなぐことにドキドキしながら過ごした時間が懐かしく思い出されます。そして、なぜか最後に体育祭のシンボルとしてクラスメートと夜遅くまで残り、丹精込めて作った張りぼてのマスコット(高さは様々ですが、中には10m近くのものもあった。竹の骨組に新聞紙を張り、その上から模造紙を貼り重ね最後に着色。管理教育の校長をヒットラーになぞらえた政治的な作品、漫画のキャラクターなどなど)を燃やしました。中には爆竹を仕掛けてあるものもあり、その最後は巨大な炎の中で壮絶に燃え尽きていきました。後には何とも言えない哀しさと「さあ、切り替えるぞ!」といった前向きな心も生まれました。思いを込めて皆で喧々諤々と作り上げた象徴を、自らの手で消し去る。私はまだ60歳ですが、若い時には若さなりの生滅を感じ、そこまでの過程で生じる躍動感と終わるときの虚しさは、何とも言えないものだったと振り返ります。終わりがあってこそ生きるということも輝いてきます。対であることは人生には多々あるものですね。苦楽、表裏、雨晴れ、外中・・・そして生滅。失うものがあるからこそ得ていることに感謝し、味わい尽くし大切に日々を生きていかねばならないと思います。今日はなにをしましょうか?私の小さな力で何ができますか?そんな問いを忘れず過ごせることを「ありがたい」と感じます。「生きてるだけで丸儲け」、そんな庶民的な言葉がとてもいとおしく感じる今日この頃です。

カテゴリ:私見

自然、人的災害の記憶と戒め

2021.07.03

 おはようございます。梅雨も末期となり、今年も線状降雨による被害が懸念されています。昨年一昨年、さかのぼれば震災や河川氾濫で人的物的に大きな被害を被った皆様は、今なお復旧に携わっておられる方がいらっしゃること、大切な人を失い心の傷を持ち続けておられる方等、忘れてはならない災害の悲惨さ、恐ろしさがこの先も記憶に残る事実として当事者の皆様にのしかかっていくことと考えます。自然災害ばかりではありません。車が突っ込み、たくさんの未来ある子どもたちの将来を奪ってしまった人間の自惚れによる過失も新しい記憶です。大津の事故、横浜の親子死亡事故等が発生し、まだ年月も浅いにもかかわらず輪禍は増える一方です。自然がなすこと、人間がなすこと、前者は一見人間はかかわりないように思われますが、実は、森林伐採、温暖化、植林(人口針葉樹)等数々の自然破壊が遠因でもあります。後者は文明化による便利さに溺れる人間の浅知恵、機械は凶器に代わることもあることを忘れ、機械の不具合に責任を転嫁してしまう自己中心的考え方を平然と語ってしまう人間性の欠如が認められること。元をただせば文明に翻弄される人間自身が諸因であることは避けられないと思うのです。
 大きな問題を身近な自分事としてとらえる。「もし私たちの住む町が災害にあってしまったら。もし自分の子どもが事故で命を落としてしまったら」。災害や事故は起きてしまってからでは、結果、被害を認められない思いが強く残り、自己や他者を責める心だけが膨れ上がり、自他ともに心は苦しくなるばかりではないでしょうか?現状を変えていくには、行政や他人に任せているばかりではなく市民一人ひとりが、どんな小さなことでも良いから、これだと思うことを実践していくことだと思います。という私も日常生活で中々できていないのも事実です。真摯に反省し心がけていくほかありません。人間は過ちを繰り返します。しかし過ちから学ばなければなりません。現状を変える難しさは人間の何千年という歴史が物語っています。先人に学び同じ轍を踏まぬようにしていくことは大切ですが、きっと繰り返します。それ以前に踏みとどまること、自問自答、他者との対話を繰り返す中で結論を出していかなければならないと思います。最善を尽くす。「無事は有事の如く、有事は無事の如く」幕末の志士、久坂玄瑞の言葉を思い出します。

 

カテゴリ:私見

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