医師 中村 哲 先生の軌跡
2025.12.14


おはようございます。
何度もテレビ報道、ニュース、ドキュメントで放映されている「中村 哲 先生」は、尊敬する実践者の一人です。あろうことか不幸にも努力の軌跡を残したアフガニスタンの地で、銃弾に斃れ73歳の生を全うされました。その行動力、医師の職務を超えた人間としての崇高な志、現地の人々と共に心と身体を捧げ汗かきながら、人を育てる目線はとてもとても凡人のなせることではありません。
中村医師は元々ハンセン病患者の現場を選択、その後パキスタンの登山隊に健康確認医療者として同行しましたが、現地の山岳地帯等で医療を受けることができない人々に出会ったことが、最後にアフガニスタンに用水路を作るきっかけでした。「医師がなぜ用水路建築?」、誰もが不思議に思うことです。ここが「人間の真実を追求する」の神髄だと感じます。
当時アフガンニスタンは100年に一度?の干ばつで農作物が育たず、食糧難と水不足、そのことが影響し感染症が蔓延していました。対処療法は医薬品や医療技術の充実ですが、中村医師は根本原因である「水」に着目し、自らの身体を酷使し石を砕き、適した工法を研究し尽くし現場工事に携わりました。
医療や土木工事についても「自分たちの生きる道は現地の人々が作る(継続するための手伝いは自分がすべて行うのではなく現地の人がやれるようになること)」を信念に、現地の人々との共同に粉骨砕身、「流される石になるな・・強い水流にもじっと耐え流れを受け止める・・」そんな気概を現地の人々に伝えたのです。中村医師亡き後も現地スタッフがその意思を引き継ぎ、大地震や戦乱の中、人命救助や食料配給に黙々と精を出し、リーダーとして活躍している様子が伝えられました。
「人間として何をなすべきか?」、「やらない理由を見つけ言い訳すのではなく、やれることをやる」、失敗しても恥ずかしくても、その小さな一歩が人の心を動かし様々を成し遂げる力を持ちます。自分自身の身近を振り返り、誠実に「やれることをやる」これが大切だと再認識させてくれたドラマ(プロジェクトX)でした。
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第五十九候「朔風払葉 (きたかぜこのはをはらう)」 11/27~12/1頃
2025.12.06

おはようございます。
【七十二候が小雪の次候に変わり、冷たい北風が、木の葉を散らす頃となりました。朔風とは北風のことで、木枯しを指します。日本海を渡る時に水分を含んだ北風は、山地にぶつかり日本海側では多くの雪を降らせます。そして、山を越えた太平洋側では乾燥した風になり、「空っ風」と呼ばれます。「朔」という字は、「はじめ」や「元へ帰る」という意味でも使われますが、十二支を方角に当てると、子 (ね) の方角は「北」となり、子は干支の最初に位することから、やがて「朔」は「北」を指すようになりました。葉を落とした木々の冬景色はどこか淋しげで、草木は一見枯れてしまったようにも見えますが、木の枝には小さな芽が出始めています。土に落ちた木の葉は「望み葉 (のぞみば)」といい、土の中で肥料となり、めぐりめぐって春を迎える植物の栄養となります。こうして草木は新たな季節に向けた準備を始めます。】
「望葉」とても良い命名ですね!幼い子どもにとっては父母、祖父母はこのような存在であるべきだと思います。もちろん大人自身の生き様、後ろ姿が「望葉」であることは確かです。「子どものため」とは紛れもなく唯一の人格を持ち、親きょうだいとも異なる人柄をもつ、唯一の存在を尊重していくことを指しているはずです。だからこそ育てられた恩にいつの日か気づき、親を大切に思う心も育っていくのです。

沖縄民謡 てぃんぐさぬ花(ホウセンカの花)
一、てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ 親(うや)ぬゆしぐとぅや 肝(ちむ)に染みり
<意味>ホウセンカの花は 爪先を染める 親の教えは 心に染みる
二、天(てぃん)ぬ群(む)り星(ぶ)しや 読(ゆ)みば読まりしが 親(うや)ぬゆしぐとぅや読みやならぬ
<意味>天の星々は 数えれば数え切れても 親の教えは 数え切れないものだ
三、夜(ゆる)走(は)らす船(ふに)や 子ぬ方星(にぬふぁぶし) 目当(みあ)てぃ 我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や我んどぅ目当てぃ
<意味>夜の海を往く船は 北極星が目印 私を生んだ親は 私の目印
四、宝玉(たからだま)やてぃん 磨(みが)かにば錆(さび)す 朝夕(あさゆ)肝(ちむ)磨(みが)ち 浮世(うちゆ)渡(わた)ら
<意味>宝玉と言えど 磨かなければ錆びる 朝夕と心を磨いて 生きて行こう
五、誠(まくとぅ)する人や 後や何時(いじ)迄(まで)いん 思事(うむくとぅ)ん叶(かな)てぃ 千代(ちゆ)ぬ栄(さか)い
<意味>正直な人は 後々いつまでも 望みは叶い 末永く栄えるg>
六、なしば何事(なんぐとぅ)ん なゆる事(くとぅ)やしが なさぬ故(ゆい)からどぅ ならぬ定み
<意味>何事も為せば成る 為さないから 成らぬのだ
七、行(い)ち足(た)らん事(くとぅ)や一人(ちゅい)足(た)れ足(だ)れ 互(たげぇ)に補(うじな)てぃどぅ年や寄ゆる
<意味>一人で出来ないことは 助け合いなさい 互いに補い合って 年を重ねていくのだ
八、あてぃん喜ぶな 失なてぃん泣くな 人のよしあしや 後ど知ゆる
<意味>有っても喜ぶな 失っても嘆くな それが良いか悪いかは 後になって分かることだ
九、栄(さかい)てぃゆく中に 慎しまななゆみ ゆかるほど稲や あぶし枕ぃ
<意味>栄えても 謙虚でいろ 実るほど頭を垂れる稲穂が あぜ道を枕にするように
十、朝夕寄せ言や 他所(よそ)の上も見ちょてぃ 老いのい言葉(くとぅば)の 余りと思(うむ)ぅな
<意味>お年寄りの言葉にはいつでも 世間を見習い耳を傾けよ 老人の繰り言だと侮るな
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読者が選ぶ中日グッとコラム(2025上半期)
2025.09.20

おはようございます。
中日新聞が9県で発行している紙面に若い記者が書くコラムが掲載されていました。読者が良かったコラムに感想付きで一票を投じるといった企画です。16名の若い記者それぞれの人となりが出ていてとても面白いと感じました。「誰が一番」というわけではなく、「この人のが一番自分にピッタリくるなー」という視点で良いと思います。私は長浜通信局(滋賀県)の「ハナコの話」を書いた平子宗太郎さんのコラムにグッときました!
最初は4匹いた、とある公園の一角に飼育されていたサルがハナコという名前でした。飼育員の方が最後に残ったサルに対しとても愛着を感じ、飼育員の仕事以上に冬は簡易暖房機を持ち込み、夏はアイスキャンディーを渡し、苦楽を共にしてきた様子が伝わってきました。きっとその行為は「必要以上の世話」、「行うべきでないこと」だったのかもと思います。しかし動物への愛着を持った人の優しさや、ルールを少々逸脱しても生き物を愛おしむ寛容な心、そこには人間同様心ある存在として相手を気遣う優しさに溢れた心を感じます。
私も子どもの頃、祖父が遠方から自転車に載せたジュウシマツを飼い、セキセイインコも繁殖させ育て、小さな命の生き死にを目の当たりにしてきました。そんな物言わぬ生き物と過ごした時間を今も鮮明に覚えています。生き物と過ごすことは、「命」がなんであるのかを学ぶことでもあります。そんな機会を与えてくれた今は亡き祖父に大きく感謝します。
この記事をの締めくくりは【ハナコは愛されていたんですね。つい言葉が出た。山岡さん(飼育員)は笑みを見せ、すぐに目を伏せた。ハナコを思う涙が何よりも悲しく、温かかった。】そんな記者自身の優しく、命を尊ぶ心さえ映し出していると感じ涙が浮かぶのでした。
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あそびをみつめ 学び 考える!
2025.05.05
この姿勢が 「すなつぶ よくみえるんだ!」4月末のまる一日(午前10時~午後4時)をかけ鶴舞の名古屋市公会堂へ、職員の皆で保育研修に行ってきました。「保育の中の子どもの声」というテーマで山梨大学名誉教授 加藤繁美先生が一人で話し続けられました。「よくぞお一人で長い時間を話し続けられるな!」が印象です。しかしとても内容が濃く、しかも東日本大震災のその後の保育園現場や、子どもたちと保育者のとても楽しいエピソードを交えていたため、ほぼ飽きることなく眠気も催す暇はありませんでした。
いくつかの学びがありましたが、「乳幼児なりに子ども時代を子どもらしく生きる!ことの大切さ」このことが一番心に残っています。だれにも邪魔されることなくただただ面白いことを経験する時間は、教科教育の時代に入る前の子どもたちだけに与えられた権利です。この時代を十分に過ごすことこそ、様々を我慢していかなければならない学童期以降を過ごすための原動力と成っていきます。
「子どもらしく生きる」とは、大人から見れば訳の分からない他愛もない遊びが、当事者である子どもにすればとても大切なことだといえるのです。「物(自然物も含む)」、「ひと(仲間・異年齢・高齢者)」、「想像(絵本・ごっこ・つもり)」と共に過ごす時間を保障できるようにしていく必要があります。
今日の画像で言えば、押し車、器、スコップ、砂、シロツメクサ等々は「物」、仲間、ピンクの帽子を被った子、保育士は「ひと」、ブロックを何かに見立てて夢中で組み立てる、お椀の中に草花をいれおかずを作っている?は「想像」の世界です。それぞれの世界を十分に遊びこむことが、心の満足、心身成長にとって大切です。
そして子どもは仲間とだけ、自分だけで過ごす時間(もちろん保育者は眼を配っています)も必要です。地べたに頭を突き合わせ腹ばいになり砂を探す、プランターの下の虫を夢中で探す、滑り台にほうきを持ち込み何やら皆で面白がる、葉が生い茂る木立の陰で一人で遊ぶ等の姿は、大人に邪魔されない自分たち、あるいは自分一人だけの世界を満喫しているのです。これらは大人に指示されて行う遊び行動ではありません。
保育園、学校といった空間は「先生」といった立場の安全管理者が存在しているのが普通です。昨今は大きく事故責任が問われるため、少しでも危険が予測される場合は遊ばせてもらえないことも多々あります。しかし、その影響は家族で過ごす海山のレジャー時に弊害となって現れているような気がします。昨日でしょうか?徳島県のハイウエイオアシスに家族で立ち寄った際、目を離したすきに6歳の子どもが誤って吉野川に転落し溺死した事故がありました。居たたまれない事故ですが、このようなことは普段、大人の眼のあるところで小さな危険に出会っていないケースが多いように感じます。
保育園の園庭にも死角(倉庫裏・プーさんハウス内・木陰・滑り台後ろ)、樹木の先、滑り台や机、フェンス等高さによる危険はもちろんあります。しかしひとり一人に保育士がついて回るわけにはいきませんので、死角に危険がないように整える、高さから落ちても大きな怪我に繋がらないことを想定する、360度の視界、保育者が子どもと遊ぶ、監視役(プールガードと同じ役割)等に注意を配るようにしています。
確かにリスクはありますが、子どもからすべての危険を奪ってしまうことは、「あそびの面白さ」、「あそびを通じた成長」、「あそびから学ぶ危険回避能力の育ち」をも奪うことに繋がります。加藤繁美先生は現代社会において、地域の力が弱くなっていることを危惧されていました。大人が見守る社会(保育園・学校)が「なにもかもダメ!」といった否定的に子どもの活動を観ていく傾向が増え、地域は全く無関心で自己の保身だけを願うような環境になっていけば、話を聞いてもらえない子どもたちの心が追い詰められたり、自分で自分を守る力が身についていくことはないと思います。
地域を変えていくことは大人の責任だと思います。子どもたちがお互いを助け合うことで、豊かな生活を送っていけるようにその土台を残していかなければなりません。
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行事と社会 子ども
2024.12.13

行事については本園が乳児専用施設であること、ご家族様が子育てにおいて第一、二子目の方が多く、日常生活においてご家族で過ごす時間を最優先にという願いに基づき、負担が大きくならない程度の件数に限っています。3歳以上になると表現力も、見られることにも安定した状態で行えるようになるため、運動会、生活発表会、遊戯会などの行事もできるようになります。同時にお子様の成長も実感しやすくなり、本人、ご家族にとって行事が大きな楽しみ、目標になっていきます。
園内で行うお餅つきやクリスマス会は、職員と午前中に行います。終わった行事を思い出したり、何日も前から歌を唄ったり、楽器を演奏したりすることで、「楽しみにする」、「音楽への興味」等を掘り起こし、「意欲」を育てていくことを狙いとしています。
行事はそれぞれに人々の「思い」、「願い」等を含んでいなければなりません(健やかにそだってね!)。子どもたち自身に持つ目標やねらいと、大人が子どもに願う幸せや望みは、必ずしも一致したものではないですが、クリスマスはキリストの誕生をお祝いする、お餅つきは稲作信仰(米の霊力を高める餅つき)で米から力をもらう、等の意味が込められています。
子どもたちに伝えることはかみ砕けばよいのではないでしょうか?ただ単に神様の誕生を祝うと言われてもピンと来ませんね。キリストは隣人愛(自分を愛するように他者を愛す)、餅つきは神道、餅をついて鏡餅を作る、神様に供える(子どもや家族の幸せを祈り感謝する)のように、置き換えて伝えていくことが大切だと思います。
一番意味がないこと、避けるべきことは商業ペースに乗せられている行動です。ハロウィン(収穫祭・祖霊への感謝)で人が密集し、ケガや死亡事故が起きる、大騒ぎをし街や公共物を汚す、壊すなどの騒ぎ立てるだけの行動。「楽しい」の真の意味は、「待ち遠しい」、「厳粛な雰囲気を味わう」、「神聖な意味」、「人々の生きる喜び」等を喜ぶ等の感情の表現だと思います。これらは子どもの頃は意味が分かるものではありませんが、大人が大切な感情を育てる機会として、「思い」を載せていかなければならないのが行事だと考えています。
直接的説明(宗教的意味、神様の厳粛さ)ではなく、一心に幸せを願い、感謝の念を現わしていく人間の姿をこそ、子どもたちに残していける財産だと思います。どうぞ行事の在り方や取り組み方を考えるためにも、元々の意味を探ってみてはいかがでしょうか?社会、ご家族、保育園、小学校・・・・において正しい意味で行事が行われることを願っています。
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