あそびをみつめ 学び 考える!
2025.05.05

4月末のまる一日(午前10時~午後4時)をかけ鶴舞の名古屋市公会堂へ、職員の皆で保育研修に行ってきました。「保育の中の子どもの声」というテーマで山梨大学名誉教授 加藤繁美先生が一人で話し続けられました。「よくぞお一人で長い時間を話し続けられるな!」が印象です。しかしとても内容が濃く、しかも東日本大震災のその後の保育園現場や、子どもたちと保育者のとても楽しいエピソードを交えていたため、ほぼ飽きることなく眠気も催す暇はありませんでした。
いくつかの学びがありましたが、「乳幼児なりに子ども時代を子どもらしく生きる!ことの大切さ」このことが一番心に残っています。だれにも邪魔されることなくただただ面白いことを経験する時間は、教科教育の時代に入る前の子どもたちだけに与えられた権利です。この時代を十分に過ごすことこそ、様々を我慢していかなければならない学童期以降を過ごすための原動力と成っていきます。
「子どもらしく生きる」とは、大人から見れば訳の分からない他愛もない遊びが、当事者である子どもにすればとても大切なことだといえるのです。「物(自然物も含む)」、「ひと(仲間・異年齢・高齢者)」、「想像(絵本・ごっこ・つもり)」と共に過ごす時間を保障できるようにしていく必要があります。
今日の画像で言えば、押し車、器、スコップ、砂、シロツメクサ等々は「物」、仲間、ピンクの帽子を被った子、保育士は「ひと」、ブロックを何かに見立てて夢中で組み立てる、お椀の中に草花をいれおかずを作っている?は「想像」の世界です。それぞれの世界を十分に遊びこむことが、心の満足、心身成長にとって大切です。
そして子どもは仲間とだけ、自分だけで過ごす時間(もちろん保育者は眼を配っています)も必要です。地べたに頭を突き合わせ腹ばいになり砂を探す、プランターの下の虫を夢中で探す、滑り台にほうきを持ち込み何やら皆で面白がる、葉が生い茂る木立の陰で一人で遊ぶ等の姿は、大人に邪魔されない自分たち、あるいは自分一人だけの世界を満喫しているのです。これらは大人に指示されて行う遊び行動ではありません。
保育園、学校といった空間は「先生」といった立場の安全管理者が存在しているのが普通です。昨今は大きく事故責任が問われるため、少しでも危険が予測される場合は遊ばせてもらえないことも多々あります。しかし、その影響は家族で過ごす海山のレジャー時に弊害となって現れているような気がします。昨日でしょうか?徳島県のハイウエイオアシスに家族で立ち寄った際、目を離したすきに6歳の子どもが誤って吉野川に転落し溺死した事故がありました。居たたまれない事故ですが、このようなことは普段、大人の眼のあるところで小さな危険に出会っていないケースが多いように感じます。
保育園の園庭にも死角(倉庫裏・プーさんハウス内・木陰・滑り台後ろ)、樹木の先、滑り台や机、フェンス等高さによる危険はもちろんあります。しかしひとり一人に保育士がついて回るわけにはいきませんので、死角に危険がないように整える、高さから落ちても大きな怪我に繋がらないことを想定する、360度の視界、保育者が子どもと遊ぶ、監視役(プールガードと同じ役割)等に注意を配るようにしています。
確かにリスクはありますが、子どもからすべての危険を奪ってしまうことは、「あそびの面白さ」、「あそびを通じた成長」、「あそびから学ぶ危険回避能力の育ち」をも奪うことに繋がります。加藤繁美先生は現代社会において、地域の力が弱くなっていることを危惧されていました。大人が見守る社会(保育園・学校)が「なにもかもダメ!」といった否定的に子どもの活動を観ていく傾向が増え、地域は全く無関心で自己の保身だけを願うような環境になっていけば、話を聞いてもらえない子どもたちの心が追い詰められたり、自分で自分を守る力が身についていくことはないと思います。
地域を変えていくことは大人の責任だと思います。子どもたちがお互いを助け合うことで、豊かな生活を送っていけるようにその土台を残していかなければなりません。
カテゴリ:教える・伝える