お知らせ

奇跡のレッスン ハンス・オフト監督

2023.06.29

「ドーハの悲劇」 1993年10月28日カタールの首都ドーハ サッカーワールドカップアジア地区最終予選敗退

おはようございます。今朝は明け方から雷雨ですね。お子様の送迎、通勤途上の事故やケガに十分ご注意ください。
オフトさんは「ドーハの悲劇」時、サッカー日本代表監督を務めたオランダ人監督です。「奇跡のレッスン(NHK)」を視ました。14、15歳でサッカーに打ち込んでいる日本の学校の臨時コーチ(1週間)を務めた記録です。ドキュメントの中で監督が一貫して伝えていた内容は、基礎の大切さ(1 シンプルにパスを出す 2 味方をサポートする  3 自分で考える)を何度も行う基礎練習の中で伝えていました。
サッカーは言わずとしれたチーム競技です。プロの世界では、ペレ、マラドーナ、メッシ、ロナウド、イニエスタ等個人技の優れた選手が活躍しています。しかしその選手たちもパスを出してくれる見方がいなければシュートも打てません。「チーム全員が一緒に伸びていく」これが最も大切であると感じました。そしてこの考え方は、どんなスポーツでも職業組織にも通ずることだと感じます。
また、オフト監督はひとり一人の個性にも着目しています。身長が小さくコンプレックスを感じていた選手に、主将がやるべき「締めの言葉」を任せたり、見方がパスしやすいポジショニングをするプレーをいち早く認め称賛したり、何を、どんな役割を果たすことが、個人にとってチームにおいて重要であるのかを支援しています。支援は保護者の相談にも応じます。練習後に親を集め子育てのコツ(思春期の子どもが反抗するときは、知らぬ顔をするのも一つ-自分で気づき立ち直るのを待つ、心配し言葉をかけすぎることは過干渉で逆効果)を伝え、スポーツを通じて、人間的に成長していく過程を重要なこととしてとらえています。
誰かがスタンドプレーをしても長くは続きません。世の中もチームプレーがあってこそ成り立ちます。お互いの個性を認め合い、皆で困難を越え登っていく世界は、地道な基礎的努力があってこそと学んだのでした。行ってらっしゃい。

夕刻 生き物を飼う 「カブトムシ がんばって生きてます!」
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さなぎから成虫になり すでに子孫を残すために がんばって生きています
身近に様々な生き物が存在することが、子どもたちにはとても大事なことだと思います。姿かたちも食べ物も異なる昆虫たちの世界は多様性がいっぱい詰まっています。異種に対し人間は最初違和感を感じます。しかし、沢山の種類に接していくうちに、その「生」を尊重しようという心が湧きたってくるのです。動物の頂点に立つ人間は、頭脳という点では一番ですが、生きる力という観点では必ずしもトップではありません。細菌に負けることもあれば、猛獣に食われてしまうことだってあるのです。ただし、他の動物は自分、仲間が生きるために他を食料として害することはあっても、人間のように食以外で同種の命を奪うことまではしません。もちろん縄張り争いで戦うことはありますが。

野生のカブトムシは樹液に集まる生き物ですが、競合する虫にスズメバチがいます。スズメバチが強力なあごを使い噛みついてもカブトムシはびくともしません。時々穴が開いていたり傷だらけのものを見つけると、なぜか感動してしまいますね。なるほど立派な外骨格(羽や角等)は、自分の身を守るためにあることが良く分かります。しかし、保育園にいるカブトムシたちは容器のふたを開けても逃げようとはしません。また同じ個体で交配すると形が小さくなっていきます。野生のサイクルを意図的に歪めてしまうことは、罪なことかもしれませんね。子どもたちはもう少し成長すると、昆虫を家庭で飼育したいと言い出します。その時同じような体験をすることで、きっと人間の思うようにしてはいけないことに気付くことでしょう。頭から飼育を禁じてしまうのは勧められません。大人の権威で興味を打ち切ってしまえば、生き物に対する真の姿勢は身につかないと言えます。

同じように人間同士も多様性を尊重する時代であることが叫ばれています。老若男女、障がいの有無、人種、思想、信仰等、様々な違いが同種である人間にも存在していることを理解するためには、幼い頃からそれなりの環境が必要だと断言します。乳幼児期が「質より量の人間関係が大切」とい言われる所以です。「インクルーシブ(包摂-すべてを包み込む)」という言葉の意味は、様々な違いを乗り越えるため重要です。反対の言葉は「エクスクルーシブ(排除的な、排他的な)」です。極端な世界に二分されようとしている人間界を、これから生きる子どもたちには「インクルーシブ」に生きていってほしいと願います。そのためにも多様な生き物、多様な人々に囲まれ生きていける力の土台を作ってあげたいものです。

カテゴリ:教える・伝える

生命誌38億年

2023.06.28

生命誌絵巻(JT生命誌研究館) 生き物の進化を表した絵巻


おはようございます。梅雨空が続きます。湿気が多くカビや細菌の繁殖、熱中症にはお気を付けください。
大阪府高槻市に「JT生命誌研究館」という科学博物館があります。3年前に訪れたのですが、地球における生命誕生の様々な歴史が分かりやすく展示されています。
前館長の中村桂子さんは生物科学者、生命誌(人間も含め、さまざまな生き物たちが「生きている」様子を見つめ、そこから「どう生きるか」を探す学問のこと)研究者でゲノムという難しい内容を扱っていますが、近著「老いを愛ずる【自然体で人生を味わいつくす、暮らしかた 白髪を染めるのをやめてみた。庭の掃除もキリがないからほどほどに。大谷翔平君や藤井聡太君、海の向こうのグレタさんのような孫世代に喝采を送る――年をとるのも悪くない。人間も「生きもの」だから、自然の摂理に素直になろう。ただ気掛かりなのは、環境、感染症、戦争、競争社会等々。そこで、老い方上手な先達(フーテンの寅さんから、アフガニスタンで井戸を掘った中村哲医師まで)に、次世代への「いのちのバトン」のつなぎ方を学ぶ。レジェンド科学者が軽妙に綴る、生命誌38億年の人生哲学。」
のように、分かりやすく生命のことを綴った本もあります。人間以外の動物、昆虫、爬虫類、植物も、皆地球上に存在する生き物。季刊 生命誌(申し込むと無料で読める小冊子)に「仏教の時間・生物の時間」をテーマに現館長永田和弘さんと浄土宗法然院貫主(かんす)梶田真さん(寺の代表者)が対談し、その中で梶田さんは「自然が豊かだという時、それは、生きものがたくさんいることではなく、お互いが支えあって、因縁、縁起がうまくはたらいているということ」、「科学技術が進歩し、できるけれどもやらない選択(遺伝子操作・AI・核戦争)」ができるかどうかが問われている現代だと話しています。考えさせられるお話でした。
今日も様々な選択が目の前に現れます。様々な生き物と共生していることを忘れず過ごしたいものです。行ってらっしゃい。

カテゴリ:生き物・自然・人間

水の効用 生き物の扱い 

2023.06.27

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思う存分 水と遊んでね

水は人気ナンバーワンです!おかげで食欲も疲れもいっぱいです。人間はつくづく体と心をたくさん使うことが大切だと感じます。機械でもそうですが使わないと壊れる確率が高くなります。子どもたちは精一杯与えられた器官を使いこなし、成長へとつなげていかなければなりません。それだけ幼いということは逆に可能性をもっているともいえるのです。かといって英才的で心を伴わない、大人の一方的な押しつけでは、心が屈折したり途中で本人の自立、自律が損なわれる危険があります。あくまで自発的興味に基づく取り組みが第一と言えます。
生き物はそれぞれに自己の生涯を全うすることが大切です。馬も例外ではありません。とても賢く人間にかわいがられ、ともに生きることで生かされていると感じることも多いです。しかし馬は足の骨を折ると、血行が悪くなり苦しむため安楽死させます。馬の体重は300~800キロもあります。その体重を支えるのは4本の足だけであることを思うと、1脚にケガが生じたときの負担は想像できないほどだと思います。多度神社の「上げ馬神事」が動物虐待ではないかと非難を浴びています。数百年も行われてきた人馬一体の行事ですので、一概に否定はできないと思います。昔から競馬、農耕、馬車等で人馬は一体となって生活してきました。それなりの愛着の中で生活してきた尊い仲間でもあるのです。歴史を振り返れば徳川第五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」が有名です。殺生を禁じた極端な法律は、江戸庶民を苦しめ後に廃止されました。
生き物としての人間、人間の都合で捨てられるペット、生きるということはそれぞれの生物種の中で尊いことです。人間が勝手にその運命を決めてはなりませんが、愛おしくかわいがっているからこその「共に生きる」という姿勢には喜びも悲しみも伴うのです。その両方に責任を持ってこそ、生き物を扱う資格が生じると思います。簡単に人を傷つけたり命を奪うことができるような人間を育ててはならないと強く思います。

カテゴリ:生き物と子ども

卒園生、転園生のみなさんへ33

2023.06.26

第二十九候「菖蒲華 (あやめはなさく)」 6/26~6/30頃


「あやめ」の由来 古くは、現在の「しょうぶ」を「あやめ」または「 あやめぐさ」と呼びました。中国から渡来した女性を「漢女(あやめ)」と呼んだことから、その漢女のようになまめかしい草という意味で「あやめ」と名付けられたとする説が有力。また、綾織物の織り目である「文目(あやめ)」に葉脈が似ていることから「あやめ」と呼ぶようになったとする説もあります。漢女は中国から機織女として渡来しており、機織、裁縫に秀でていたことから、「あやめ」は「漢女」と「文目」の両方の意味を含むものと考えることもできます。

おはようございます。週明け、2日間は梅雨の中休みといったところでしょうか?
【七十二候が夏至の次候に変わり、菖蒲の花が美しく咲き始める頃となりました。「いずれあやめか杜若」これは、どちらも優れていて優劣がつかず、選択に迷うことのたとえです。菖蒲 (ショウブ) 言葉通り、非常に姿かたちが似ていて見分けがつきにくいアヤメ・ハナショウブ・カキツバタですが、まず5月上旬にアヤメから咲き始め、続いて5月中旬にカキツバタ、5月中旬から6月下旬になるとハナショウブが咲き出します。菖蒲は「あやめ」とも「しょうぶ」とも読むことが出来ますが、「菖蒲華」の菖蒲は、花の咲く時期から「ハナショウブ」ではないかと考えられています。菖蒲の花 これら三つの見分けるポイントは、花弁のつけ根を見ることです。どれも紫色の花をしていますが、アヤメには網目模様、花菖蒲には黄色い菱形模様、杜若には白く細い線が入っているのが特徴です。また、咲いている場所で見分ける方法もあり、アヤメは水はけの良い草地に、カキツバタやハナショウブは水辺や湿地に咲きます。】
いつも雨を心配する季節ですが、このすっきりしない気候があるからこそ、生きている生き物もおり、たまに見られるお日様がありがたく、カラッとした夏空が待ち遠しくもなります。今日も自然に順じ素直に生活していきましょう。行ってらっしゃい。

カテゴリ:七十二候

「沖縄慰霊の日」と自衛官候補生銃乱射事件

2023.06.23

平和記念公園

「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘


おはようございます。今日は不安定ですが、晴れ間もうかがえる1日となると良いのですが。
今日6月23日の「慰霊の日」は、沖縄戦犠牲者の霊を慰め世界の恒久平和を願う日です。沖縄県が条例で記念日として定めました。沖縄戦は、太平洋戦争の末期である1945年に、日本軍と、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍との間で行われた戦いです。日本軍は沖縄を本土防衛の最後の拠点とし、連合国軍は日本本土に攻め入るための基地として、沖縄諸島を攻略しようと試みました。沖縄戦では、連合国軍と日本軍を合わせて20万人以上の犠牲者が出たといわれています。そのうち、一般の犠牲者は推計で約10万人です。沖縄県民の4人に1人が命を落とした壮絶な戦いで、甚大な被害がありました。「慰霊の日」は、アメリカ軍が主体となった連合国軍と日本軍との間で起こった組織的な戦闘が終わった日とされています。1945年6月23日に、沖縄現地に配備された日本軍の牛島満司令官と長勇参謀長が自決し、組織的な戦闘が終結したことから、この日が「慰霊の日」に定められました。
さて、現代日本では銃によって尊い命が奪われる事件が起きました。それも日本を他国からの侵略、災害発生時にいち早く国民を守るために組織されたはずの自衛隊内部での事件です。殺傷能力のある武器を扱う特別な場所で人の命を奪う行為が公然と行われたことに衝撃が走ります。なんとも恐ろしいことです。日本では銃の所持は厳しく規制されていますので、アメリカのように学校で銃の乱射があることは、確立としては低いと思います。しかし、昨今は狩猟用の散弾銃などで身内や夫婦間で起こる殺傷事件も相次いています。
一見銃がなく安全な日本で、今回無差別に近い自動小銃(連続発射できる銃)の乱射事件が起きたことは衝撃的です。しかも18歳の青年が手を下したという事実は、それまでの育ちに何かしら原因があると考えざるを得ません。弾を込め外部に持ち出そうとしていた節もあるということで、日本の社会が抱える大きな闇を感じます。たとえ銃がなくても「人を殺してみたい」等の願望が、理性によってコントロールできない若者が事件を起こしている事実は、氷山の一角にすぎないと思います。そのように考えると、おちおち外出もままならなくなると感じます。絶対の安全などあり得ないのが生き物の世界、理解できないのが人の心でもありますが、「信じる」を失えばもはや人間ではなくなってしまいます。命の尊さや人間が起こす過ちについて、身近なところから警鐘を鳴らしつつ、記念日を通じ過去の戦争と過ちに対し目をそらさず、風化させない気持ちを失ってはならないと考えます。行ってらっしゃい。

夕刻 「身近に生き物がいること」
身近に生き物を見て触れられる機会があると、生き物への関心が様々な所に現れてきます。どうして子どもたちは生き物に関心が強いのか、これは本能的なものとしか答えようがありません。今日も園庭でミミズやナメクジを探す子どもたちの姿が見られました。ミミズ一匹で20分、関わる子どもが4人もいました。これが蝶やトンボ、バッタが現れたら世界はさらに広がるのです。室内であればイメージや思いが膨れ上がるものは、絵本や歌その他の玩具に限定されます。だからこそ室内は素材そのものと準備の仕方に工夫が必要となるのです。
数年前子どものキャンプ活動をしていた時、子どもから「このカブトムシは電池で動いているの?」と信じられない質問を受けたことがありました。どれだけ自然環境から遠ざかる生活をしていたのかを、象徴する言葉だと思います。子どもは屋外にいるだけで様々なことを学んでいます。それは屋外が変化に富んだ世界だからです。変化は子どもたちにとっては、新しくて面白い体験と、様々な自然物の変化を得ることができ、また自分の力で変えていくことができる主体性発揮の場でもあります。私が屋外での活動を積極的に行うのはそのためです。今は中々効果が現れるものではありません。5年単位くらいで子どもたちの心の中と身体能力は確実に変わったことが分かるようになります。
親や教師は教育の効果を短期間で確かめたい欲求にとらわれがちですが、人間の発達はそんな簡単にはいきません。比較的分かりやすいのが、知識と技術的成果ということなのです。しかし、この教育に専念すると心の発達は置き去りになる危険性があることを心得ておいてください。本当に今子どもたちに必要な環境と力は何であるのかを、大切にしなければなりません。

カテゴリ:戦争

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