お知らせ

こどもの世界から学ぶべきこと

2024.10.06



子どもたちはそれぞれの発達段階で、自分の思うように砂場、園庭、平均台、切り株を使い、そこへ自然物と道具を加えることで遊びを見つけ出し、自分の世界へ没頭していきます。そんな時に仲間、発達が先を進んでいる子等が自分なりの感覚や面白さを求めて関わってきます。これは集団で園庭という場所を共有しているから、必然的な出会いとなって相互が影響し合う結果をもたらします。

そこに有る物や新たな素材が持ち込まれるのはもちろんですが、新たな扱い方や考え方も表現される場所に変わっていきます。自分が運んだもの(コップ)をおにーちゃんが使っても、笑顔で慌てることもありません。またおにーちゃんも決してコップを他の所へ持っていってしまうのではなく、平均台の周辺でのみ動かしています。普段から異年齢が顔を合わせ、許しあえる、慈しみ合う関係性が出来ているのでしょうか?比較的異年齢の集団はそれほどトラブルになることはありません。心のどこかに遠慮や優しい気持ちが育っていくからだと推測します。

こうして昨今では失われつつある異年齢集団のやり取りを、保育園内では0.1.2歳の集団の中でつくりだすことが出来ます。昔は町の路地裏でこのような風景がいたるところで見られたのですが、防犯目的、生活変容の影響を受けて、その環境が作り出されるであろう場所へ、大人が子どもを連れていかないと経験できないことになってしまいました。

この様な子どもたち同士の関係性を大切にしていきたいと考えています。それは「人間は人の中で育ち、成長していく必要があるから」です。人間同士が絡めば当然楽しいことばかりではありません。しかし、お互いの存在の違いや異なる考え方を受け入れてこそ、お互いを認め合ったり、距離感を持った付き合い方を見つけだすことが出来ると思うからです。子どもたちにはその機会が必要です。人間と生き物の世界から遠のき、機械化、効率化した社会では子どもが「人間同士のやり取り」を学ぶ機会が減っていきます。最も危惧すべきことです。

地球上の様々な紛争は、多くの人命を奪う結果ばかりが浮き彫りになっています。人間同士も人間と動物、生き物も「違い」に対しては、ある程度の距離を置かなければ解決できないこともあります。「問題をいったん棚上げにする(尖閣問題-日中国交回復時に周恩来がこの問題に触れないことを提言)」ことも人間の知恵だと思います。

【抜粋 「力ずくの戦いは道に反する」「不争の極意」
「不争の徳」を説いた老子はまた、次のような言葉で不争の極意を教えています。「吾不敢為主而為客」(吾敢えて主とならずして客となる)自分が中心となって行動しようとせず、「受け身に回れ」と言うのです。つまり、戦争を避けられない状況に陥ったとしても、基本的には「不争」のスタンスでいけよ、自分から攻めたりするなよ、ということ。あくまでも、「戦わないこと」「争わないこと」が“徳”であり“道”だと強調していたわけです。老子によれば、戦いを治められるのは“慈悲”の心だけだと言います。「慈をもって戦えば、勝利し」の言葉からわかるように、相手を哀れみ、いつくしむことができるほうが勝利を手にするのだというのです。】

カテゴリ:生き方

顔が見える繋がりの大切さ!

2024.07.28



「タライを囲む」、この風習は既に数十年前に日本の生活から姿を消しています。しかしお互いが顔を突き合わせ、やり方や声、笑顔を見る、聴くことは、なんと人間的で文化的生活なことでしょうか?大人が作り出した便利で自動的な生活は、引き換えにこれらの豊かさを失っていることを自覚しなければなりません。全自動洗濯機が朝の忙しい時間を短縮し、効率的な生活を生んでいることは事実ですが、写真のような豊かなコミュニケーション、学びの場を作り出すことはできないのです。

子どもたちはこのようなアナログ的な生活形態の中でこそ、心と体を使い、鍛え、知恵を絞り、人と笑顔、表現を交わしながら必要な対話能力を獲得していきます。スマフォや映像、無機質で受動的、人工的刺激の強いデジタル機器が、子どもの成長にとって良いはずはありません。

また、たとえ幼い子ども同士のやり取りにおいても、その言動は正解ばかりではありません。正解ではなく「今の時点で最も良い方法、解決策」を見出す。この努力を個人、または複数人で試行錯誤していくことに人間としての存在価値があります。もちろん協同して行うことが正しくないことに向けられれば、「共謀」といった行動として非難されることにもなります。しかし、子どもの世界では「許されること」として、大人が寛容に対応していくことも大切だと思います。

子どもの楽しむ声は騒音でしょうか?子どものいたずらは許されないことでしょうか?大人の世界がゆとりを失った時に、子どもは邪魔で余計なことを行う対象として疎まれることにつながります。また、このような視方は「老いる」ことにもエイジズムという言葉で向けられています。加齢への嫌悪をさしているのですが、昨今ではアンチエイジングが盛んになっています。確かに見かけが年老いていくことは誰もが好むことではありません。しかしいつの日か、しわは増え節々は痛くなり、人間は衰えていくのです。その事実は認め、自己の役割を見つめていけば、心はむしろ若返っていくことでしょう。深刻なのはエイジングを自分以外の他者に向け嫌う傾向です。自身もいつかは老い、出来ていたことが出来なくなるようになります。先に生きた人々の尊厳を忘れてはなりません。家族が介護を経験すると、その家庭で育った子どもは、とても他者の状況に同調できる若者に育つと言われています。老いる、苦難の乗り越え方、立場の違いなどを学習しているからです。

過去の生活に戻るわけにはいきませんが、「タライを囲む」的生活を見直し、「生きること」、「成長すること」について考えを深めることが必要な時代です。

カテゴリ:生き方

貴重な篤志家

2024.06.29

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おはようございます。
少し前ですが6.16の中日新聞「視座」に内田 樹さん(視座担当者の一人)の論評が掲載されました。「公私混同する人」、タイトルだけ見ると「公私に区別がつかず公共財を私物化する人」、「公権力を私利のために用いる人」を想像しますが、ここで話している人は「私有物が公共的に用いられることを好む人」を指しています。世間ではそのような人を「篤志家」と呼んでいます。最近では虐待やネグレスト下にある子ども、身寄りが無く貧困にあえぐ高齢者への食、生活空間提供、行き場のない子どもの私設図書館の運営等々、身銭を切って世間を支援する方がいます。
我福祉会にも長きにわたり、「日蓮宗のお寺で子ども食堂の食事を作る」を行っておられた篤志家がいらっしゃいます。50回をもって自身の年齢等を考え自らで活動に幕を下ろされました。元々大手の給食会社(カリヨン福祉会内 高齢者施設食事担当)での立派なキャリアを生かされた活動ですが、氏が心を込めた味とどこからも声がかかり頼られる姿は、まさに尊敬に値する「篤志家」です。心から感謝の言葉を送りたいと思います。また、今後も福祉会の方々(ほうぼう)でご活躍されるお姿を拝見できればと希望しております。ありがとうございました。

カテゴリ:生き方

全盲のヨットマン 岩本光弘さん

2024.06.24

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おはようございます。
ラジオ深夜便で「全盲のヨットマン 岩本光弘さん」が出演し、その生い立ちや思いを語っていました。
【13歳の時に視力を失い始め、目が見えなくなった16歳の頃、こんな人生なんかつまらない、どうしてこの世に生まれてきたんだろうと思っていました。毎日毎日見えなくなることへの恐怖と不安で心が張り裂けそうになり、こんな自分なんか死んでしまった方が良いとさえ考えていました。どうして自分だけが見えなくならなければいけなんだ、どうしてあの人ではなく自分が....。このように思う自分がさらに嫌になっていました。16歳の夏、とうとう飛び込み自殺を決意しましたが、恐怖で飛び降りることが出来ませんでした。その後、近くの公園で休んでいた時に夢に亡くなった伯父が現れ、『目が見えないことにも意味があるんだ(お前が頑張る姿をみて励まされる人がいるはずだ)』と話しかけてくれました。その後、見えなくなったことの意味を考えられるようになり、少しずつ生きる力を得ることができました。そして、自分自身を愛し、自分自身に『ありがとう』と言えるようになった時、人生が180度転換したのです。勇気を持って色々なことにチャレンジをすることができるようになりました。しかし、2013年に挑戦した辛坊さんとのヨット太平洋横断は、鯨との衝突により途中で断念。再度、山から谷へ突き落とされました。世間からの非難や、ご迷惑をおかけした方への自責の念から、半年間うつ状態に。しかし、周囲の励ましと、この体験でしか得られない気づきを得て、6年後、2019年の再チャレンジでは、成功を成し遂げることが出来ました。どんなに辛いことがあっても、上を向いて歩いていればやがて楽しい時がやって来る。明るい朝が来ない夜などない。暗い夜だからこそ美しい星を見られる。私の実体験から皆様にお伝えできることに感謝いたします。】
確かに物事はだめだと思い、努力を辞めてしまえば、そこからの嬉しさ苦しさ、人との出会や別れもなくなってしまいます。どの道を選ぶかは「自分次第」です。もし諦めかけていることがあったなら、もう少し前向きな気持ちで頑張ってみよう!新たな光が差し込み、道が見えてくるかもしれません!

カテゴリ:生き方

農のある町

2024.04.21

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おはようございます。
少し遅くなってしまったのですが、今週金曜日にジャガイモの植え付けを、園内で子どもたちと行うことになりました。昨年から園の農作業を共にしているNさん(ご高齢ですがとても元気で自分の畑、みんなの畑を耕し、様々な人と野菜を育てておられます。)は、とても子ども好きで子どもたちにも人気です。
この活動には様々な狙いを含んでいます。高齢者と地域住民の活性化とつながりの創出、多世代の交流、食育、環境循環の実践等、保育園を通じ様々な交流を生み出し、繋がりある地域を作り、相互理解、支援の機会を作っていきたいという願いを持っています。平たく言えば「顔見知りになろう!」が狙いです。
土に触れることは、老若男女の隔たりを取っ払い、作業を通じた「仲間になりやすさ」が生まれます。おまけに自宅で出た生ゴミなども野菜作りに活用が可能となり循環社会に役立ちます。さらに「顔見知り」になることは、縁がなかった子どもと大人をつなぎ、事故や発災時などの共同や支援に役立つ基盤となります。
農のある町(中日4.4つながる広がる地域の食 中)では、そんな活動を都心(東京都日野市)で行っている自治体と住民の、生き生きとした活動の様子を伝えています。ネットを通じた関係性は繋がりを広げることもできますが、仮想空間や相手の顔が分からないデメリットが生み出す危険性も存在しています。やはり人間同士は肌のぬくもり、お互いを確認しあえる対面でのやり取りを重視すべきです。いざという時に対面の力は侮れないと思います。孤立化しがちな現代社会において、新たなつながりの場所、居場所を作り出していく必要があります。
保護者の皆様にも機会があればぜひご参加いただけたらと思います。子育て、お仕事に忙しい時期だからこそ、安心できる同じ子育てに苦労している仲間同士のつながりが、一筋の光となって支えを生み出すに違いありません。

カテゴリ:生き方

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