お知らせ

風化させてはならない事故、事件?歴史

2024.09.01

38年前の惨劇 ジャンボ機が御巣鷹山に墜落
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おはようございます。
お盆が来ると思い出すことがあります。「日航123便墜落事故」です。事故は1985年8月12日羽田から伊丹空港へ向かおうとしていたジャンボ機に起こりました。垂直尾翼が破損し?コントロールを失った旅客機が御巣鷹山(群馬県)に墜落し乗員乗客520人が亡くなり(生存者はわずか4名)ました。
子どもたちとキャンプ中だったのですが、事務所のテレビ画面から放送される画像は今も鮮明に覚えています。出張先から帰宅を急いでいた人、里帰りから戻る子ども連れ、歌手坂本九さん等々、ごく普通の家庭の人から著名人まで多くの命が奪われた惨劇です。
ベストセラーになっている「マンガ日航123便はなぜ墜落したのか」を読み、事故、事件?を振り返ってみました。中身は驚くべき仮説が森永卓郎氏によって語られています。概要は海上自衛隊の試験(模擬飛行機を爆薬の入っていないミサイルで打ち落とす訓練)による誤射という衝撃的話です。もしこれが事実であるならば、許されざる政治家、隠蔽に関わった罪は償えることではないでしょう。

カテゴリ:歴史

天王陛下の英国訪問

2024.06.29

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天王陛下が国賓として英国を訪問されました。155年前、明治天皇が当時の英国アルフレッド王子を、国賓として招いて以来、昭和天皇、上皇、現天皇と、長い歴史の中で友好関係を築いてきました。先の大戦によって両国民が戦火を交えた不幸な歴史はありましたが、国王、天皇陛下ともに「未来志向」を大切にすることで一致しています。一国を代表する方の言葉を重く受け止め、私たちは両国及び世界の平和に貢献していくことをあらためて誓う必要があると思います。
【天皇陛下はおよそ14分にも及ぶスピーチを全て英語で行い、「両国の友好親善関係が、次代を担う若者や子供たちに着実に引き継がれ、一層進化していく一助となれば幸いです」、先の大戦を念頭に、「日英両国には、友好関係が損なわれた悲しむべき時期」があったとした上で、「苦難のときを経た後に、私の祖父(昭和天皇)や父(上皇さま)が女王陛下にお招きいただき、天皇としてこの地を訪れた際の思いがいかばかりであったか」と思いをはせた。
さらに「日英関係はかつてなく強固に発展しています」と述べた。両国関係の現状を「裾野が広がる雄大な山」と表現し、「先人が踏み固めた道を頼りに、感謝と尊敬の念と誇りを胸に、更に高みに登る機会を得ている我々は幸運と言えるでしょう」と述べ、両国が「かけがえのない友人」として「永続的な友好親善と協力関係を築いていくこと」を願い、しめくくった。- スピーチより抜粋】

カテゴリ:歴史

沖縄慰霊の日

2024.06.29

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おはようございます。
毎年この日については触れるようにしています。「沖縄慰霊の日」、太平洋戦争末期、日本軍の組織的抵抗が終わりを迎えた1945年6月23日は沖縄での戦没者(約20万人以上)を追悼し、平和への願いを新たにする日として定められています。終戦日は8月15日ですが、沖縄の人たちにとってはこの日は忘れてはいけない日となっています。
沖縄は日本で唯一地上戦が行われた場所です。当時の軍部は勝ち目のない戦いに、沖縄を捨て駒とし本土決戦を少しでも遅らせ優位に立とうとしました。窮地に追い込まれた日本兵は住民を巻き込み、あるいは犠牲にし生き残ろうともがきました。戦争は同胞さえ見殺しにしてしまうような人間の残虐性を露にします。
【糸満市の「平和の礎」や「魂魄の塔」では、朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげました。「今、戦争の足音が聞こえる どうしても止めたい」、沖縄戦で祖父母や叔母など30人を亡くしたという今帰仁村の78歳の女性は、「ここからここまでみんな亡くなりました」と礎に刻まれた名前を指でなぞりながら話しました。当時の状況について「米軍が上陸してきたので祖父を中心に避難しましたが、入ろうとした墓にはすでに日本軍が入っていて祖父たちが入ることは許されなかったそうです。糸満のほうに逃げて民家にとどまっていたところ艦砲射撃にあうなどして1人しか生き残りませんでした。母の姉の家族や妹の家族も全滅しました」と話していました。そのうえで「今、戦争の足音が聞こえるでしょう。これをどうしても止めたいです。私は自分の身内から戦争の話を聞いているのでそれを伝えるのは義務だと思います」と話していました。】
このようなお話を語り継いでいかなければなりません。人間は過去を忘れたとき、同じような悲惨を繰り返します。だからこそ毎年同じ事実を、違った形、角度から考え直していく機会を持つ必要を感じます。

カテゴリ:歴史

日韓友好の象徴

2024.05.19

雨森芳洲(東アジア交流ハウス雨森芳洲庵-滋賀県長浜市高月町雨森1166番地)
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朝鮮通信使 
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おはようございます。
日本と韓国には不幸な歴史があります。明治以降の政策で資源の少ない日本は、農業生産から工業製品の製造へと舵を切り、日清、日露戦争を経て太平洋戦争で敗戦するまで、海外において貢献もしましたが暴挙も行いました。そんな負の歴史の中にも心ある日本人が植民地時代に韓国へ渡り、「育苗法(林業)」を伝えた浅川巧、水不足にあえぐ韓国国民のため「貯水池」を作ることを朝鮮総督府に直談判し工事費を調達し、偉業を成しました。同じ人間として赴任先で社会に貢献した人々は今なお地元の人々に顕彰されています(中日-5.12)。
滋賀県生まれの「雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう」を語らないわけにはいきません。【「近くて遠い国」といわれる、韓国・北朝鮮。それは、意外にも明治になってからで、李氏朝鮮王国とは長く友好関係にあった。この善隣関係をズタズタに破壊し、今日まで影響を与えたのが、豊臣秀吉の引き起こした、2度の朝鮮出兵だった。その修復に徳川家康は苦心し、歴代将軍がそれを踏襲した。鎖国の中にあって、唯一国交をもっていた朝鮮との関係を確固たるものにすべく、誠信を貫いてその重責を担った一人の人物がいた。対島藩朝鮮方佐役(外交と貿易の任)雨森芳洲である。近江の高月に生まれた芳洲は、22歳の時、対島藩に仕官し、4年間の江戸詰めの後、絶海の孤島ともいうべき対島に渡った。以来、88歳で対島の「鬼」と化すまで、朝鮮との外交に腐心し、朝鮮との国交をより確かなものにした。その間、芳洲は、長崎の出島において中国語を学び、さらには朝鮮の釜山に渡って朝鮮語そのものも習得している。異国を知るためには、まず相手の国の言葉を理解しなければならないという信念からにほかならない。また芳洲は、朝鮮からの使節団である「朝鮮通信使」一行500余名を、2度にわたって対島から江戸にまで案内している。その応接にも芳洲は、“誠信”のふれあいが必要であると説き続けた。その著『交隣提醒』には、次のような一節がある。誠信のふれあいとは……に続き、「実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わりを、誠信と申し候……」】
世評に惑わされず正しいことを貫くことを教えてくれます。特に大切な「心」を見失いかけている昨今、思い出す必要がある過去の出来事です。

カテゴリ:歴史

苦難の歴史と自然美の島

2023.11.07

五島列島 玉之浦椿
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【七十二候が立冬の初候に変わり、山茶花 (さざんか) の花が咲き始める頃となりました。この山茶 (つばき) とは、"椿 (つばき)" でなく、ツバキ科の「山茶花」のことを指しています。山茶花という漢字は「山に生え花を咲かせる茶の木」ということで、その昔、葉の部分をお茶として飲んでいたことに由来すると言われています。花の少ないこの季節に、人知れずそっと咲いて散っていく山茶花。殺風景な冬枯れの景色を可憐に彩ることから、寺院や茶室の庭木としても好まれる花です。花言葉は「ひたむきな愛、謙遜、理想の恋」。
山茶花も椿もよく似た花を咲かせますが、この時期に先駆けて咲くのは山茶花で、木へんに春の椿は、12月~4月にかけて花を咲かせます。また、山茶花は花びらが一枚一枚散りますが、椿は散らずに花ごとぽとりと落ちるという違いがあります。】

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五島列島 福江島 大瀬崎灯台

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井持浦教会 

五島列島は奈良尾島、福江島等、5つの島からなり長崎県に所属しています。この島々は自然美にあふれていることで知られています。また、行く先々に江戸、明治期の教会が優美な姿を見せてくれています。しかし、キリシタン弾圧の歴史もこの島には存在し、貧しさからの救済を望んだ人々の心、その歴史をたどった旅程もとても魅力的でした。中々訪れることはできませんが、何度も訪れてみたい場所だと思います。
美しい島は上五島(奈良尾島)では砂浜が少なく、断崖(火山と侵食)となっているのが特徴です。福江島は時々美しい浜辺もあり、真っ白な砂、青い海と空等南国の様相を呈しています。食べ物はうどん、バラモン揚げ(さつま揚げに似ているが甘くない)、そして何といっても刺身は「超ウマ」です!海に囲まれた場所、様々な海流の入り混じる地故の海の幸です。【長崎県五島列島で水揚げされる鮮魚は特に別格と言われるほど優れています。なぜ? 五島列島の鮮魚は特に優れているのか!五島列島近海は対馬海流とリマン海流が重なる場所、五島列島は漁場に関して大変恵まれた場所にあります。驚くほどきれいな海と極めて最良な自然条件が多く揃っています。驚くほどきれいな海。東シナ海に広がる世界でも有数な大陸棚。対馬海流に乗って多種多様な魚が回遊。速い潮の流れで身の締まった魚が育ちます。浅い海は潮の流れが速くこの海域の魚は速い潮の流れで鍛えられて身が締まり、味が良くなります。また南から北上してくる暖流、対馬海流とベーリング海から南下してくる寒流、リマン海流が五島近海でぶつかりプランクトンが発生して多種多様な魚が大量に集まります。】
さらに玉之浦椿【赤い花弁に白くふちどりされた五島の名花「玉之浦椿」読みは「たまのうらつばき」突然変異によって咲いた奇跡の椿。五島市玉之浦町の野生ヤブツバキ林で発見され1973年に命名、諸説あるが、今の荒川温泉辺りで発見されたとも。海外でも有名な品種である。】はとても珍しい花模様をしています。

現在五島の島々は人口減に直面しています。若者は高校を卒業すると長崎や都心に移り住むのが通常であり、少子化も進むことで島の人口は減り続けています。逆に安息と有意義な生活を求めて都心から移住する若者(クリエーター等)もいますが、中々歯止めが利かないようです。自然が好きでも生活していくには様々な困難もあります。農業、漁業、観光業等の活性化を狙い都会感覚で変革を試みても、地元住民の反対にあうなど島ならではの難しい関係もあるようです。現在は移住だけに的を絞らず関係人口【(関係人口とは、移住した「定住人口」でもなく、観光に来た「交流人口」でもない、地域や地域の人々との多様に関わる人々のことだ。・・中略・・「たとえ移住しても、この土地に骨をうずめるって人はそう多くはないと思うんです。だから移住というよりは、たとえば1年のうち1ヶ月とか五島で仕事をしてくれたり、休みを過ごしてくれたり、そういう人が増えると良いですね」】の増加を促進しているようです。様々な姿を見せてくれる五島は強く心に残っています。過疎、近代化しすぎず大切な自然と歴史文化の場所として生き残っていけるように応援したいです。行ってらっしゃい。

カテゴリ:歴史

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