日韓国交正常化 基本条約署名60周年 ~雨森芳洲~ に学ぶ
2025.06.22

おはようございます。
日本と韓国が国交を回復してから60年が経過しました。韓国が日本の植民地時代、日本人が行ってきた数々の残虐な行為や韓国国民への差別を公式にお詫びし、新しい前向きな関係性を保つ努力が行われてきました。もちろん直接被害に遭われた方の憎しみが、消え去ったとは言えないことを日本人として、当事者ではなくても歴史認識しておくことは大切なことだと思います。終戦末期の原爆投下によっても、韓国から連れてこられた人々が亡くなる、被爆している、韓国人の特攻隊員、日本の軍隊への従軍慰安婦がいらしたことを私たちは覚えておくべきです。
しかしそのことを踏まえた上で、現代に生きる若者たちに新たな未来をバトンタッチしていく義務が私たち大人にはあります。目を背けず、「私はそんなことはしていないから無関係」ではなく、一歩間違えば同じ失敗を繰り返すのが人間であることを心得ておくためにも歴史に学ばなければなりません。「誠心交隣(中日-6.15社説)」を説いた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)【雨森芳洲の生涯は、言葉を通じて人と人、国と国をつなごうとした試みの連続でした。近江の医家に生まれ、詩と学問に親しんだ少年は、父の死をきっかけに江戸へと旅立ち、木下順庵の薫陶を受けて思想を深めていきます。やがて対馬藩に仕官し、朝鮮語・中国語を学び、外交の最前線で「誠信外交」を体現していく――その道のりには、常に相手を理解しようとする姿勢と、形式にとらわれない誠実さがありました。芳洲が遺した言葉や著作、そして彼を描く数々の作品は、現代においてもなお、他者とどう向き合うべきかという根源的な問いを私たちに投げかけてきます。欺かず、争わず、真実をもって交わる――その精神は、今も時代を超えて、生き続けています。】
カテゴリ:歴史
屋根の上のバイオリン弾き
2025.04.21

おはようございます。
週末に「屋根の上のバイオリン弾き」ミュージカルを観てきました。市川正親、鳳蘭主演の素敵な舞台、時代背景はユダヤ人がまだイスラエルを建国する以前、世界のあちこちに分散(主に帝政ロシア下、ポーランド)し生活していた時の生活と迫害を受けた歴史が盛り込まれています。「屋根の上はいつ落ちるか分からない場所、その上で楽しく豊かにバイオリンを演奏することは、まさに私たちの生活そのものである」劇中の言葉が印象に残っています。
【概要-日本初演から半世紀以上、こんな時代だからこそ人々に愛され続けるミュージカル。結婚に必要なのは「愛」なのか「金」なのか?政治的思想と、理想の家庭は両立するものなのだろうか?宗教の違いを超えて、人は幸せになれるのだろうか?親の信念を子供たちに押し付けることは良いことなのか?など、激変する世界情勢の中、いつの時代でも、どの国でも通じる今日的なテーマを、軽妙なセリフ回しと軽快な音楽、ダンスシーンを交えてお贈りする名作ミュージカル、それが『屋根の上のヴァイオリン弾き』です。『屋根の上のヴァイオリン弾き』が書かれた時代のユダヤ人たちは、どのように暮らしていたのでしょうか。
ショレム・アレイヘム作、西 成彦訳『牛乳屋テヴィエ』(岩波書店)によれば、分断によってポーランド王国が消滅した18世紀末からあと、それまでポーランドに住んでいた大半のユダヤ人たちはロシア帝国の支配下に置かれることになりました。テヴィエたちも、そういったユダヤ人の一員だったのです。本作の執筆が始まった1897年頃には、当時のワルシャワ(ロシア領ポーランド)、オデッサ(ウクライナ)などにはユダヤ人の人口が全体の30%を超えていたということですから、かなりの数のユダヤ人がいたことになります。しかし先述の通り、その頃ロシア国内では反ユダヤ主義の考えが高まっていました。その動きは次第に加熱し、20世紀初頭には「ポグロム(ユダヤ人襲撃)」が起こります。同じ頃に、12歳の少年への殺人容疑でユダヤ人が逮捕された「ベイリス事件」が起こりました。実際は冤罪だったのですが、この事件の背景にも反ユダヤ主義が関係していたと言われています。
作品の先にある未来|ナチスによる迫害やがて20世紀中ほどの1940年代にはドイツのアドルフ・ヒトラーによる“ナチス政権”によって、主にユダヤ人を対象とした大量虐殺や迫害が起こります。ヒトラーは、当時のドイツの経済・政治面の悲惨な状況が起こったのはユダヤ人のせいだとして、彼らを強制収容所へ送り、虐殺を繰り返しました。ナチス政権によって虐殺されたユダヤ人は600万人を越えるといわれています。ほかにもポーランド人を筆頭とするスラブ系民族や遊牧民族のロマ、捕虜軍など約500万人の人々がナチスによって虐殺されました。この被害はウクライナ方面に住むユダヤ人にも及び、ユダヤ人集落の無人化が進んでいきました。これらは『屋根の上のヴァイオリン弾き』の時代からは少し先の話になりますが、作中にもすでにユダヤ人迫害の様子が描かれています。前述の岩波文庫『牛乳屋テヴィエ』の巻末解説には「ウクライナのユダヤ人にとって『古きよき』時代の最終段階ともいえるのが、この小説の背景となった時代である」と解説されています。(抜粋 演劇メディアオーディエンス-糸崎舞)】
カテゴリ:歴史
風化させてはならない事故、事件?歴史
2024.09.01
38年前の惨劇 ジャンボ機が御巣鷹山に墜落

おはようございます。
お盆が来ると思い出すことがあります。「日航123便墜落事故」です。事故は1985年8月12日羽田から伊丹空港へ向かおうとしていたジャンボ機に起こりました。垂直尾翼が破損し?コントロールを失った旅客機が御巣鷹山(群馬県)に墜落し乗員乗客520人が亡くなり(生存者はわずか4名)ました。
子どもたちとキャンプ中だったのですが、事務所のテレビ画面から放送される画像は今も鮮明に覚えています。出張先から帰宅を急いでいた人、里帰りから戻る子ども連れ、歌手坂本九さん等々、ごく普通の家庭の人から著名人まで多くの命が奪われた惨劇です。
ベストセラーになっている「マンガ日航123便はなぜ墜落したのか」を読み、事故、事件?を振り返ってみました。中身は驚くべき仮説が森永卓郎氏によって語られています。概要は海上自衛隊の試験(模擬飛行機を爆薬の入っていないミサイルで打ち落とす訓練)による誤射という衝撃的話です。もしこれが事実であるならば、許されざる政治家、隠蔽に関わった罪は償えることではないでしょう。

おはようございます。
お盆が来ると思い出すことがあります。「日航123便墜落事故」です。事故は1985年8月12日羽田から伊丹空港へ向かおうとしていたジャンボ機に起こりました。垂直尾翼が破損し?コントロールを失った旅客機が御巣鷹山(群馬県)に墜落し乗員乗客520人が亡くなり(生存者はわずか4名)ました。
子どもたちとキャンプ中だったのですが、事務所のテレビ画面から放送される画像は今も鮮明に覚えています。出張先から帰宅を急いでいた人、里帰りから戻る子ども連れ、歌手坂本九さん等々、ごく普通の家庭の人から著名人まで多くの命が奪われた惨劇です。
ベストセラーになっている「マンガ日航123便はなぜ墜落したのか」を読み、事故、事件?を振り返ってみました。中身は驚くべき仮説が森永卓郎氏によって語られています。概要は海上自衛隊の試験(模擬飛行機を爆薬の入っていないミサイルで打ち落とす訓練)による誤射という衝撃的話です。もしこれが事実であるならば、許されざる政治家、隠蔽に関わった罪は償えることではないでしょう。
カテゴリ:歴史
天王陛下の英国訪問
2024.06.29

天王陛下が国賓として英国を訪問されました。155年前、明治天皇が当時の英国アルフレッド王子を、国賓として招いて以来、昭和天皇、上皇、現天皇と、長い歴史の中で友好関係を築いてきました。先の大戦によって両国民が戦火を交えた不幸な歴史はありましたが、国王、天皇陛下ともに「未来志向」を大切にすることで一致しています。一国を代表する方の言葉を重く受け止め、私たちは両国及び世界の平和に貢献していくことをあらためて誓う必要があると思います。
【天皇陛下はおよそ14分にも及ぶスピーチを全て英語で行い、「両国の友好親善関係が、次代を担う若者や子供たちに着実に引き継がれ、一層進化していく一助となれば幸いです」、先の大戦を念頭に、「日英両国には、友好関係が損なわれた悲しむべき時期」があったとした上で、「苦難のときを経た後に、私の祖父(昭和天皇)や父(上皇さま)が女王陛下にお招きいただき、天皇としてこの地を訪れた際の思いがいかばかりであったか」と思いをはせた。
さらに「日英関係はかつてなく強固に発展しています」と述べた。両国関係の現状を「裾野が広がる雄大な山」と表現し、「先人が踏み固めた道を頼りに、感謝と尊敬の念と誇りを胸に、更に高みに登る機会を得ている我々は幸運と言えるでしょう」と述べ、両国が「かけがえのない友人」として「永続的な友好親善と協力関係を築いていくこと」を願い、しめくくった。- スピーチより抜粋】
カテゴリ:歴史
沖縄慰霊の日
2024.06.29

おはようございます。
毎年この日については触れるようにしています。「沖縄慰霊の日」、太平洋戦争末期、日本軍の組織的抵抗が終わりを迎えた1945年6月23日は沖縄での戦没者(約20万人以上)を追悼し、平和への願いを新たにする日として定められています。終戦日は8月15日ですが、沖縄の人たちにとってはこの日は忘れてはいけない日となっています。
沖縄は日本で唯一地上戦が行われた場所です。当時の軍部は勝ち目のない戦いに、沖縄を捨て駒とし本土決戦を少しでも遅らせ優位に立とうとしました。窮地に追い込まれた日本兵は住民を巻き込み、あるいは犠牲にし生き残ろうともがきました。戦争は同胞さえ見殺しにしてしまうような人間の残虐性を露にします。
【糸満市の「平和の礎」や「魂魄の塔」では、朝早くから遺族などが訪れ、静かに手を合わせて平和への祈りをささげました。「今、戦争の足音が聞こえる どうしても止めたい」、沖縄戦で祖父母や叔母など30人を亡くしたという今帰仁村の78歳の女性は、「ここからここまでみんな亡くなりました」と礎に刻まれた名前を指でなぞりながら話しました。当時の状況について「米軍が上陸してきたので祖父を中心に避難しましたが、入ろうとした墓にはすでに日本軍が入っていて祖父たちが入ることは許されなかったそうです。糸満のほうに逃げて民家にとどまっていたところ艦砲射撃にあうなどして1人しか生き残りませんでした。母の姉の家族や妹の家族も全滅しました」と話していました。そのうえで「今、戦争の足音が聞こえるでしょう。これをどうしても止めたいです。私は自分の身内から戦争の話を聞いているのでそれを伝えるのは義務だと思います」と話していました。】
このようなお話を語り継いでいかなければなりません。人間は過去を忘れたとき、同じような悲惨を繰り返します。だからこそ毎年同じ事実を、違った形、角度から考え直していく機会を持つ必要を感じます。
カテゴリ:歴史