お知らせ

苦難の歴史と自然美の島

2023.11.07

五島列島 玉之浦椿
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【七十二候が立冬の初候に変わり、山茶花 (さざんか) の花が咲き始める頃となりました。この山茶 (つばき) とは、"椿 (つばき)" でなく、ツバキ科の「山茶花」のことを指しています。山茶花という漢字は「山に生え花を咲かせる茶の木」ということで、その昔、葉の部分をお茶として飲んでいたことに由来すると言われています。花の少ないこの季節に、人知れずそっと咲いて散っていく山茶花。殺風景な冬枯れの景色を可憐に彩ることから、寺院や茶室の庭木としても好まれる花です。花言葉は「ひたむきな愛、謙遜、理想の恋」。
山茶花も椿もよく似た花を咲かせますが、この時期に先駆けて咲くのは山茶花で、木へんに春の椿は、12月~4月にかけて花を咲かせます。また、山茶花は花びらが一枚一枚散りますが、椿は散らずに花ごとぽとりと落ちるという違いがあります。】

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五島列島 福江島 大瀬崎灯台

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井持浦教会 

五島列島は奈良尾島、福江島等、5つの島からなり長崎県に所属しています。この島々は自然美にあふれていることで知られています。また、行く先々に江戸、明治期の教会が優美な姿を見せてくれています。しかし、キリシタン弾圧の歴史もこの島には存在し、貧しさからの救済を望んだ人々の心、その歴史をたどった旅程もとても魅力的でした。中々訪れることはできませんが、何度も訪れてみたい場所だと思います。
美しい島は上五島(奈良尾島)では砂浜が少なく、断崖(火山と侵食)となっているのが特徴です。福江島は時々美しい浜辺もあり、真っ白な砂、青い海と空等南国の様相を呈しています。食べ物はうどん、バラモン揚げ(さつま揚げに似ているが甘くない)、そして何といっても刺身は「超ウマ」です!海に囲まれた場所、様々な海流の入り混じる地故の海の幸です。【長崎県五島列島で水揚げされる鮮魚は特に別格と言われるほど優れています。なぜ? 五島列島の鮮魚は特に優れているのか!五島列島近海は対馬海流とリマン海流が重なる場所、五島列島は漁場に関して大変恵まれた場所にあります。驚くほどきれいな海と極めて最良な自然条件が多く揃っています。驚くほどきれいな海。東シナ海に広がる世界でも有数な大陸棚。対馬海流に乗って多種多様な魚が回遊。速い潮の流れで身の締まった魚が育ちます。浅い海は潮の流れが速くこの海域の魚は速い潮の流れで鍛えられて身が締まり、味が良くなります。また南から北上してくる暖流、対馬海流とベーリング海から南下してくる寒流、リマン海流が五島近海でぶつかりプランクトンが発生して多種多様な魚が大量に集まります。】
さらに玉之浦椿【赤い花弁に白くふちどりされた五島の名花「玉之浦椿」読みは「たまのうらつばき」突然変異によって咲いた奇跡の椿。五島市玉之浦町の野生ヤブツバキ林で発見され1973年に命名、諸説あるが、今の荒川温泉辺りで発見されたとも。海外でも有名な品種である。】はとても珍しい花模様をしています。

現在五島の島々は人口減に直面しています。若者は高校を卒業すると長崎や都心に移り住むのが通常であり、少子化も進むことで島の人口は減り続けています。逆に安息と有意義な生活を求めて都心から移住する若者(クリエーター等)もいますが、中々歯止めが利かないようです。自然が好きでも生活していくには様々な困難もあります。農業、漁業、観光業等の活性化を狙い都会感覚で変革を試みても、地元住民の反対にあうなど島ならではの難しい関係もあるようです。現在は移住だけに的を絞らず関係人口【(関係人口とは、移住した「定住人口」でもなく、観光に来た「交流人口」でもない、地域や地域の人々との多様に関わる人々のことだ。・・中略・・「たとえ移住しても、この土地に骨をうずめるって人はそう多くはないと思うんです。だから移住というよりは、たとえば1年のうち1ヶ月とか五島で仕事をしてくれたり、休みを過ごしてくれたり、そういう人が増えると良いですね」】の増加を促進しているようです。様々な姿を見せてくれる五島は強く心に残っています。過疎、近代化しすぎず大切な自然と歴史文化の場所として生き残っていけるように応援したいです。行ってらっしゃい。

カテゴリ:歴史

生き残るために

2023.08.22

苗木城跡
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おはようございます。今日も暑く午後は不安定な天気です。洗濯物を外に干しにくいですね。
車で中央道中津川インターを降り、257号線を下呂方面に進むと、ほどなく右手に苗木城跡が見えます。木曽川の断崖絶壁に位置し、現地からは眼下に木曽川と恵那市が一望できます。「天空の城」としてよく知られており、散策路もしっかりしていますので、季節が良くなったら立ち寄るのも良いかもしれません。中津川、恵那は名古屋からも比較的近く、博物館(鉱物)、ラジウム温泉、名物(栗きんとん)もあり楽しめる場所だと思います。
実は苗木藩は「廃仏毀釈」で有名な地域でもあります。【苗木藩では、明治3年(1870)に領内の寺院・仏像・仏具・経典、および個人の位牌も含めて、破棄または消却する政策を断行しました。 このような仏教を排斥した苗木藩の廃仏毀釈運動は、全国的に見ても類を見ないほど徹底的に行われました。 この廃仏毀釈の運動は、神道を重んじ、国民の思想信仰統一を図った明治維新政府の一連の政策に追従する形で、平田派国学者であり、 大参事という藩の要職にあった青山直道が中心となって実施されたものです。】
なぜこのような極端な政策をとったかは「苗木遠山資料館」で詳しく理解することができます。財政難が大きな理由でしたが、揺れ動く明治維新の風にのり、何とか生き残ろうとした藩の命運をかけた手段でした。恵那では今も神式による儀式を行っている家庭が多く、庶民の生活にも大きな影響があったことがうかがえます。私たちの知らないところで、日本にはまだまだ謎や不思議がたくさんあります。海外も良いのですが、日本人である以上自分たちの祖先や歴史を学び、誇りをもって自国を語れる人間になりたいですね。行ってらっしゃい。

カテゴリ:歴史

沖縄本土復帰50年

2022.05.24

1972年5月15日沖縄が日本に返還されてから今年で50年が経ちました。太平洋戦争末期の沖縄戦以降、住民の皆様は言葉にできない「哀しく、苦しく、悔しい思いや経験」を数々してこられました。本土で過ごしてきた私たちは当事者ではないため、心の底から思いを共有することはできませんが、沖縄で起きてきた事実をよく知り理解しようと努めることが必要です。世論調査でも米軍基地の問題、事件事故、生活について、沖縄県民と本土民の認識には差異がありました。一国民として「他者の靴を履く(ブレイデイみかこ著)」ことに思いを馳せ、考えていきたいと思います。
沖縄はその立地ゆえの数奇な歴史をたどってきました。大国の唐、薩摩藩、明治政府そしてアメリカ占領下等統治者が変わり翻弄されながらも独自の文化を生み守ってきた歴史があります。唐の冊封(さくほう)体制下、「踊り奉行」なるおもてなしの芸能役割まで作り、戦争を避け中国との関係を良好に保つ知恵を使い、一方薩摩、明治政府とのやり取りについても平和裏に譲歩しながら、琉球処分で王朝統治の幕を閉じました。
そのような歴史をたどってきた沖縄が、最大の苦難である戦争の犠牲になり、太平洋戦争唯一の国内地上戦の場となったことで、9万人(日本全戦没者19万人)もの一般市民の死者を出しました。戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争に沖縄の基地から米軍機が飛び立ち、同基地面積は本島だけで総面積の15%、日本全土の70%ほどが沖縄県に集中しています。基地があることで米軍の事件事故は後を絶たず、騒音問題にも苦しめられているのが現状です。また、本土人の心に潜む国内の南北方面民族に対する優越意識は、古来からの由緒ある伝統を卑下したうえ、戦前から国は「うちなーぐち(沖縄地方の方言)」の使用も禁止し、皇民教育を押し付けてきました。そのような政策により大都市では、居住や就職についても拒絶を受け、生きる権利すら侵害を受けてきました。
荒れ果てた地、多くの犠牲者を出した沖縄の人々は、それでも苦難の歴史をバネに強く立ち上ろうとしました。「命(ぬちどぅ)宝」、「なんくるないさー(あるべき様に自然になるものさ)」他にも強さを表す「ウチナーグチ」は数多くあります。沖縄の人々の心に生きる「芸能の伝統」は、小那覇舞天、照屋林助、笑築過激団 (しょうちくかげきだん)など苦しさを風刺と笑いに変え民衆を勇気づけてきました。また、音楽においてもコザでアメリカ兵相手のロックグループ(紫、マリー・ウィズ・メデューサ)が活躍しましたが、戦場へ向かう兵士の精神状態を満たすための演奏は、罵声の中、生きるか死ぬかの真剣勝負だったようです。アメリカ文化をたくましく取り込みながら、その後沖縄アクターズスクール(スピード、ダパンプ、安室奈美恵 他)はポップカルチャーとして日本全土に深く浸透し、漸く自身のアイデンティティー(日本人、沖縄人)である島唄(ビギン、夏川りみ)にたどり着いたのです。その力の源は反骨精神の持続に他ならなかったと思います。「武力使わず自然を愛する 自分を捨てて誰かのため何かができる(モンパチ 琉球愛歌)」反発する心をバネに、歌と笑うことでたくましく伝えようとする、そんなウチナンチュのぶれない強さに学び、我々ヤマトンチュもできることをしなければなりません。
米軍基地の存在が安全保障上必要不可欠であるならば、せめて全県全国民が平等に負担を負うべきです。自分の居住区に戦争遂行集団が出現することは、今問題になっている敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有する場所として攻撃の対象になることでもあります。現代から過去を見通しても、核保有、NATO加盟、武器供与なども一歩間違えば、考えられない暴挙を行う国との軍事的緊張を高め、命を脅かされる確率が高まることは誰もが分かることです。中国の覇権を警戒するアメリカおよび日本政府にとって、戦略的見地から南方に位置する沖縄県、離島が基地として好都合であることは周知のことですが、日本国憲法の三大原則(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を堅持し、少しでも戦後の沖縄県民の痛みを理解し、分かち合っていく意思を具体的政策や文化で示していかなければなりません。
「空の青さと海の青」、美しい自然に恵まれたトロピカルな島、癒しの島には、今に至る血のにじむような苦難の歴史があったことは事実です。政策を市民の生活目線まで掘り下げ、納得いくものとするため、私たち一人ひとりが「癒しを与えられる」だけではなく「安心と安全を与える」立場へ意識改革が求められているのではないでしょうか。復帰から50年も経てしまいましたが、今からでも変えられるはずです。代表者である政治家を選ぶのは私たち一国民なのですから。そのためにもプロパガンダやフェークニュース、国家の意図的扇動に惑わされることなく、正しい知識の元、自律した判断力を学ばなければなりません。

カテゴリ:歴史

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