お知らせ

日韓友好の象徴

2024.05.19

雨森芳洲(東アジア交流ハウス雨森芳洲庵-滋賀県長浜市高月町雨森1166番地)
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朝鮮通信使 
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おはようございます。
日本と韓国には不幸な歴史があります。明治以降の政策で資源の少ない日本は、農業生産から工業製品の製造へと舵を切り、日清、日露戦争を経て太平洋戦争で敗戦するまで、海外において貢献もしましたが暴挙も行いました。そんな負の歴史の中にも心ある日本人が植民地時代に韓国へ渡り、「育苗法(林業)」を伝えた浅川巧、水不足にあえぐ韓国国民のため「貯水池」を作ることを朝鮮総督府に直談判し工事費を調達し、偉業を成しました。同じ人間として赴任先で社会に貢献した人々は今なお地元の人々に顕彰されています(中日-5.12)。
滋賀県生まれの「雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう」を語らないわけにはいきません。【「近くて遠い国」といわれる、韓国・北朝鮮。それは、意外にも明治になってからで、李氏朝鮮王国とは長く友好関係にあった。この善隣関係をズタズタに破壊し、今日まで影響を与えたのが、豊臣秀吉の引き起こした、2度の朝鮮出兵だった。その修復に徳川家康は苦心し、歴代将軍がそれを踏襲した。鎖国の中にあって、唯一国交をもっていた朝鮮との関係を確固たるものにすべく、誠信を貫いてその重責を担った一人の人物がいた。対島藩朝鮮方佐役(外交と貿易の任)雨森芳洲である。近江の高月に生まれた芳洲は、22歳の時、対島藩に仕官し、4年間の江戸詰めの後、絶海の孤島ともいうべき対島に渡った。以来、88歳で対島の「鬼」と化すまで、朝鮮との外交に腐心し、朝鮮との国交をより確かなものにした。その間、芳洲は、長崎の出島において中国語を学び、さらには朝鮮の釜山に渡って朝鮮語そのものも習得している。異国を知るためには、まず相手の国の言葉を理解しなければならないという信念からにほかならない。また芳洲は、朝鮮からの使節団である「朝鮮通信使」一行500余名を、2度にわたって対島から江戸にまで案内している。その応接にも芳洲は、“誠信”のふれあいが必要であると説き続けた。その著『交隣提醒』には、次のような一節がある。誠信のふれあいとは……に続き、「実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わりを、誠信と申し候……」】
世評に惑わされず正しいことを貫くことを教えてくれます。特に大切な「心」を見失いかけている昨今、思い出す必要がある過去の出来事です。

カテゴリ:歴史

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