同行二人
2023.09.28
おはようございます。秋風がさわやかです。
「同行二人」お遍路さんの傘や衣服に書かれているこの言葉には深い意味があります。人間は結婚して家族を増やし子孫を繫栄させていく大事な役割を持ちます。しかし最後には一人でこの世を去らなければならない運命も背負っているのです。たとえ夫婦で遍路を歩んだとしても一人に等しい、しかし弘法大志様だけはいつもそばにいてくれる。そんな意味です。
【たとえ誰か友達や、家族や、恋人とふたり以上でお遍路を巡礼していたとしても、その場合でもあなたはお大師さまとふたりっきりで巡礼しているのだと説いているのだ。すなわちこの世でお遍路を共にしている者、恋人や、結婚相手や、仲のいい友達や、子どもなどは、あなたにとっていないも同然の存在だということである。お遍路において本当に重要なことは、この浮世で肉体を共にしながら歩く相棒のことを考えたり思いやることではなく、精神を清らかに孤独に保ちながら、強烈な孤独感のそばにお大師様だけを引き連れて歩みを進めて行くことなのだ。
ぼくたちはこの世で、他人を思いやることや誠意をもって対応することが大切だと教えられる。しかし仏教的に究極的に考えれば、この世で肉体を共にしている者など夢まぼろしの偽物の幻想に過ぎないのかもしれない。そんなものに執拗に構っている暇があるんだったら、いっそすっぱりと潔く精神を孤独に保って、悟りへの道を歩めとお遍路は教えているのかもしれない。人間が集団や群れとして悟りを開くなんてありえない。悟りを開くときにはいつでも、人は孤独である。この「同行二人」は、お遍路に限らず人生という巡礼の道にも当てはまるのではないかとぼくの心の中では感じられた。どんなに仲間と楽しい時を過ごしていたとしても、どんなに愛する人と結ばれている時でも、心の中に清らかな孤独を忘れず、その孤独にたったひとりを触れさせるべきである。
究極的な孤独を共有するのは弘法大師であるとは限らない。それはお遍路における絶対的存在の象徴であり、結局は空海でなくても、神様や、仏様や、大いなる魂や、大自然や、宇宙でもいいのだろう。思い描く究極的な孤独の共有相手は、それぞれの人の宗教観や死生観やものの見方に左右されるのではないだろうか。もしもそのようにして誰もが究極的な孤独を心の中に持ち合わせれば、矛盾するようにぼくたち人間は決して孤独ではなくなる。それは誰もが究極的で清らかな孤独の色彩を心の中に描くことによって、「孤独」を大切に抱く者同士としてぼくたちはその思いを知らず知らずのうちに共有することができ、矛盾を引き起こすように究極的な孤独によって孤独とは正反対の究極的な共有が出現する。孤独と共有は輪廻転生を描き、ぼくたちはもうひとりじゃない。-みずいろてすと から引用】
正しいか否かは問題ではなく一つの考え方です。孤独は人間にとって必要なことです。それは真の連帯を得るために、どうしても必要な過程だと思います。「孤立」とは真の「孤独」を体験していないがために生じてしまうとも感じます。行ってらっしゃい。
カテゴリ:生き方