他者への信頼
2025.05.17

土、玩具、環境、人、まだ何となく接点を持っているっといった段階ですね!はっきりとした目的を持っているわけではなく、触りながら、視ながら感触を確かめる、年長者や保育士が行っていることを真似して同じことを行ってみることで、少しづつ自分の楽しさを見つけていくのでしょう。苗付けも水やりもはっきり目的を分かっているわけではありません。でも触れること、体験することは何年後か先にその効果が現れてきます。
今日の写真の3人は、比較的長い時間を一緒に過ごしていますね。このように一緒の場所、空間を共有することで、お互い顔を見合わせ「にっこり」する場面も見られるようになっていきます。だんだんと相性のようなものが生じ、同じ遊びが好きな仲間同士が示し合わせたかのように遊びだす、といった場面も現れてくることでしょう。
今日はサツマイモの苗付けを皆で行いました。畑を整備し子どもたちに声をかけてくださるNさんにおいでいただきました。新入園児さんは既に4月から3度目になります。去年から在園している子は何度もNさんとは接点を持ち、2度目の苗付けになります。
こうして同じ大人に何度も会うことで、子どもたちの心の中には「この人は安心、やさしいよ・・・・」などの思いが定着していきます。「人を信じる心」を育てているのです。知らない人が起こす事件が増えている世の中ですが、保育園を通じてこの心を育てることは、「頼り頼られる関係性」の理解を幼い頃から学んでいくことになります。
この様な経験が不足すると、「他者を信じられない」、「敵愾心(てきがいしん)を持つ」、「自らで自らを孤立させる」などの負の感情を持ちやすい人間性に偏る危険もあります。事件を起こしている少年、青年、大人は、幼少期に「人間関係の訓練機会」が少なかったのではないでしょうか?
だからこそ普通の家庭の子、おとなしい子、挨拶もできる子など、いっけん大丈夫そうな子どもたちが、簡単に「人命を奪う」ような事件を起こしているようにも感じます。幼さはまさに未熟であり、悪気なく人を傷つけ、しかしそのことによって、ひどい仕返しを受けたり、醜い言葉を浴びせかけられることで、逆に「してはならない事」を学ぶ機会でもあるのです。過剰な大人の踏み込みや「言った言われた」に対する代替行動は子どもの耐性力を弱くしてしまいます。
様々な暴力による程度を越したケンカは別として、子どもたちだけであるべき世界に必要以上に大人が介入することは、大切な学びの機会を奪うことにもなります。子どものことで意見が合わず、酒を飲んでいる場で意気投合し、学校へ行き教師に乱暴を働くなどの事件も、大人と子どもの世界をはき違えた大人?のしでかした、醜くくて幼い狂気の沙汰です。
カテゴリ:教育