お知らせ

ラグビーワールドカップ 惜敗

2023.10.14

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こんにちは。
バレーボール日本代表はパリオリンピックへの切符を手にし、悲願を達成しました。勝利の舞台裏には若くして亡くなった選手への想いも強くありました。選手の活躍には様々な知られざる苦労、努力があったことを知れば、勝敗の見方も変わってきますね。
さて、9日ラグビー日本は惜しくもアルゼンチンに27対39で敗れました。しかし、日本チームらしい粘り強いプレーを見せてくれたことは、深く心に残っています。激しいタックル、真摯な姿勢、ノーサイドとなった時の振る舞い、どの場面も見逃せない人間性を感じる戦いに、心底憧れてしまいます。ルールはとても難しく感じますが、一つ一つの取決めがラグビー憲章(品位・情熱・結束・規律・尊重)に沿ったものであると理解すべきだと思います。何となくしっくりこないルール、アーリーエンゲージ(レフリーの合図よりも早くスクラムを組んでしまう-規律)、ノット1メートル(ラインアウトの際、相手選手と1mの間隔を取らなかった-尊重)、ノットリリースザボール(タックルで倒された選手がすぐにボールを離さなかった-品位)などが、その反則の根拠のように思います。
これらのルールは人間が勝敗に拘り、「自分さえ良ければ」といった私欲をコントロールできない人間性を防ぐための規範ともいえるのではないでしょうか。人間はいつもこれら約束を守っていける動物ではないことを、良く分かっているとも言えます。
法律、倫理、掟などは「正しく生きていくための道しるべ、基準」でもあります。かといって昨今の世の中のように、何でも法制化してしまうことは、それだけ人間に倫理、道徳観がなくなっていることを示し、何でもルールや権威に頼る傾向を生み出しているとも言えます。勧善懲悪的な世の中は、どこか歪(いびつ)でゆとりや寛大さに欠けた人への見方を助長していきます。白黒とはっきりさせることも大事ですが、グレーな部分をどちらへ向けていくのかは、人間の寛大さや良心を元にしているからだと思います。このような意味でラグビーの精神はとても「人間性」に基づいたスポーツだと思います。

カテゴリ:スポーツ

少年野球チーム監督(多賀少年野球クラブ)

2023.10.14

教えてくれるのは子どもたち
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こんにちは。めっきり冷え込んできました。つい先日までの気候と大きく異なり、寒ささえ感じますね。極端に暑かった夏同様、老いも若きも寒暖差にまだ体が慣れていませんので、十分ご注意ください。
さて、「プロフェッショナル-NHK」という番組をご存じかと思います。先日滋賀県の多賀という場所で、少年野球チームの監督を30年以上続けている方の話【移住してでも通わせたい!滋賀県に全国から子どもたちが学びにくる少年野球チームがある。練習時間はほかのチームの半分ほど、参加自由、指示は一切なしのノーサイン野球、型破りな教えで全国大会を連覇、世界大会をも制した。率いるのは、辻正人(55)、公務員のかたわらほぼボランティアでの活動を35年、休むことなく続けてきた。勝利に固執し真逆の指導にのめり込んだ過去。白球と子どもたちとの夏。もうひとつの甲子園。】が放送されました。今年の夏の甲子園慶応義塾高校の優勝(エンジョイベースボール)を思い起こします。
監督自身も過去は旧来の指導法でした。しかし偶然子どもにどうすべきかを考えさせた時、子どもたちがとても意欲的になり、チームに笑顔と意欲がみなぎったのを見逃しませんでした。以来「子どもたちから教えてもらった」をもっとうに子どもたち自身が考え、楽しむ野球をあきらめない姿勢は一貫しています。私のように教育の世界をかじっていますと、監督の指導方法がとても人間の成長にかなっていることが分かります。話を集中して聞けない低学年の子どもたちに無理を言わない、飽きる前に短時間で練習を終える、またチームを手伝ってもらう人は「子どもをしっかりと育てている保護者。野球経験は全く関係なし。柔軟な考え方ができる人、感情が安定している人、学ぶ姿勢がある人」だそうです。これも子どもの「成長発達」、「心」を大切にしているからだと思います。子どもの自発の力を信じることは中々根気が必要ですが、「わがまま、危険」か「欲求」なのかを見極め、大人も楽しんで対応していくことが、自然に子どもたちが伸びていく一つの方法であることは確かだと思います。

カテゴリ:スポーツ

「雨ニモマケズ」に秘められた願い

2023.10.05

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おはようございます。
心の時代~宗教・人生~(NHK Eテレ)、シリーズ宮澤賢治 久遠の宇宙に生きるシリーズが終わりました第6回最終回「デクノボーとして生きる」では、賢治の理想とした生き方を伝えています。
【貧困に悩む東北の民の中で、金貸し業を営む宮沢家は裕福でした。彼の父は悪人正機説(阿弥陀の慈悲は善人より悪人に注がれ、人はたとえ罪を犯しても、虚心に懺悔すれば阿弥陀仏の慈悲によって救われる)を説く、熱烈な浄土真宗の信者でした。しかし賢治は自分だけが幸せであることに罪悪感を持ち、浄土真宗を捨て、(山や川、草や木もすべて仏性を持って成仏する)という日蓮の「天台本覚論」、法華経にひかれてゆきます。特に常不軽(じょうふけい)菩薩の生き方に感銘を受けました。
(常不軽菩薩)
増上慢(正しい教えを得ていないのに得たと思い込んでおごり高ぶる者)の人々が満ちあふれる時代に、一人の菩薩がいた。彼はどんな人をも拝んで「私はあなたを敬い、決して軽んじません。あなたはきっと仏様になるお方なのですから」といった。遠くに人を見れば、その人のもとに駆けつけて同じことを告げた。「馬鹿にしているのか」と人々は怒り、罵り、石を投げ棒で打ちすえようとするが、その菩薩は決して怒ることなく身を避けて、なお同じことを述べ続けた。人々は彼を「常に軽んじない者」ということで、常不軽菩薩と呼んだ。】
デクノボーは常不軽菩薩のことを指してます。
また、ところどころに「行ッテ」とあるのは、地涌の四菩薩(「上行菩薩=卓越した善行をなす者」、「無辺行菩薩=際限なき善行をなす者」、「浄行菩薩=清らかな善行をなす者」、「安立行菩薩=よく確立された善行をなす者」)を示し、全てに「行」の字が入っているところに、「行動」を尊ぶ『法華経』の精神が表れているのです。賢治は「行う」ことに大きな価値を持っていました。どんな理想もたとえ小さな一歩でも、目に見える形で進めていくことが大切です。そんな頑なな心に感じ入りました。行ってらっしゃい。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(怒)ラズ イツモシヅカニワラツテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤ ソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

カテゴリ:宗教・文化

増税 年収の壁 政策

2023.10.04

せごどーん!
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おはようございます。さわやかな秋が深まっていきます。イネ科の植物も最盛期です。花粉症、喘息などの方は注意が必要です。
さて、インボイス制度、物価高、円安、年収の壁等、日本の経済状況は低迷を続け、庶民生活も圧迫を受けています。政府が行う政策が場当たり的、一時的でない事を願うのですが、状況は国民に負担を課していく方向性が強いように思います。西郷隆盛の唱えた原点に立ち返り、考え直す必要があります。
【13条 租税を薄くして民を裕にするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐たげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧の俗吏を用ひ巧みに聚斂して一時の缺乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦惱に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾に趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩離析に至るにあらずや。※『西郷南洲遺訓』
意訳
税負担をなるべく軽くして国民生活を豊かにすることが、国力増強には不可欠である。だから政府が何かと入用だからと言っても、税を取りすぎぬよう戒め、財政負担を国民に押しつけてはならない。歴史を振り返ってみるがいい。ビジョンが明確でない国家は浪費を続け、財政が苦しくなると必ずと言っていいほど、小賢しい役人が国民から搾り取ろうと悪知恵を巡らすものだ。そして国民から搾取するほど評価され、ますますエスカレートした結果、国民は苦悩をこらえかねて租税回避に悪知恵を巡らせるようになるだろう。かくして政府と国民の間には不信感が増幅し、まるで敵同士のようにいがみ合い、ついには国家が崩壊してしまうのだ。】
今日本は「ひとかどの人物」を必要にしているようにも感じます。議会制民主主義が真に協調、少数の考えを含み正しく執行されればよいのですが。日本人の特徴は様々な分野において、世界で活躍している人たちが伝えてくれています。諸外国、風評に流されず、懸命に日々を生きる姿勢を持たなければなりません。行ってらっしゃい。

カテゴリ:教える・伝える

関東大震災(映画 福田村事件)を問い直す

2023.10.02

「福田村事件」
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おはようございます。
今から100年前の大正12年(1923年)9月1日関東で大きな地震が発生し、10万5千人ほどの死者行方不明者を出しました。地震が日中に起き、食事のため火を使っていたことも被害を大きくした原因でした。さらに民衆は自警団と称し「朝鮮人、共産主義者が井戸に毒を入れた、放火した」等のうわさが広がり、数百から約6000名の朝鮮人、共産主義者が虐殺されたといわれています。現在もその詳細、責任は闇に葬られ公的機関は具体的調査、情報開示も実施していないのが現状のようです。
当時は大陸での日本の植民地支配が進み、朝鮮半島における反日運動、共産主義者の摘発が行われており、民衆は恨みを根拠とした恐れの矛先を主に在住の朝鮮人に向けてしまいました。映画「福田村事件(森達也監督)」が現代社会に問うていることは、人間が集団化したとき、そこに働く心理状況の恐ろしさを描いています。また、被害者側からではなく加害者の立場から描いていることで、人間は窮地に追い込まれたとき、とんでもないことを行う存在であることを示しています。加害者となった人たちも普段は善良で普通の人間でした。ひとたび集団化することで、「安心感を得たい」心理が働き暴走し間違いを起こします。
この事件をなぜ今考える必要があるのでしょうか。「いじめ問題」、「戦争の引き金」、「孤立化社会」のシステムと共通する問題だからです。「一人称単数」、「自分の主語を保つ」大切さが分かります。詳しくは【クロ現取材ノート「福田村事件」森達也監督 100年前の“虐殺” が現代に問うもの」】をご覧ください。
行ってらっしゃい。

カテゴリ:教える・伝える

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