特定の二人 自然
2025.11.09






行き当たりばったりに見える子どもたちの行動も、実はそれなりに意味があり、その道程を追っていくとおもしろさが見えてくることもあります。もちろん本当の思い付きでそれ以上あそびが膨らまないことも多々ありますが・・・・。
とにかく思った通り自分の身体と頭をフル回転させながら、行動の結果で考え直していることは確かだと思います。今日の写真を見ても所々にそんな様子がうかがえます。
例えばトラックに花りんを積みおもむろに車を走らせますが、どこっていう目的地や「こうしたい」という目的はなかったと思います。ですが頭の中には映像や実際にダンプカーが、土砂を満載した荷台を持ち上げ落とす場面を記憶しているのか、その様子を再現したい気持ちがあるのだと想像します。
砂場で型に詰められた砂は、きっとたこ焼きか何かしらお店で売られるものなのでしょうか?だからこそプーさんハウスをお店に見立てお店屋さんを楽しもうとしているのかもしれません。その事を実感するために、砂場ではなくプーさんハウスである必要があったと思います。
ともだちと二人で手をつないでいる姿(特定の2人)は、右手(利き手)であるいは仲間を自分の右側に置きたいのか、決まった形を作ろうとしています。「こうでなければ」といった自分中心の視方ですが、お互いがその行動を認め合えるからこそ「特定の仲間同士」と言えると思います。他者を受け入れていく初歩の段階は、この「特別な2人(気が合う、許しあえる関係性)」でないと育たないものがあるのです。
そしてバッタ、カリン、キンモクセイ等の様々な自然を通じ、命に触れていく機会がたくさん写し出されています。私たち人間ももちろん生き物ですが、人間以外にも「命」があることを感じ、共に地球で生活している原点を肌身で理解していく機会を得ています。人間だけがすべてでないことを知ることは、例えばミツバチがいなくなれば、果物や野菜を食べられなく日が来るのを、いつの日か理解することに繋がっていくのです。
このように子どもたちはいかにも偶然の毎日の中で、実は必然的な出来事に出会い、様々な人間性会、生物界の約束や順番、弱肉強食等を学んでいるのです。だからこそこれらの機会を保障する必要があるのです。子どもたちに小さくても「豊かな自然環境」を用意することは、何もないのっぺらなグランドを準備することよりも、数百倍大切なことであると考えています。
自然の一部である人間は、在りのまま、たとえ作られた自然であったとしても、自然を感じながら生きることが出来る環境に過ごすことで、他者、他の生き物を尊重する心を自らの中に育て、本来持っているべき人間性を保ち続けることが出来るはずです。その機会が少なくなっている人類は、自らでその危機を招いているとも言えます。
カテゴリ:発達
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