異年齢 多世代 交流の大切さ
2025.07.28

今日はすみれ組さんがつくし組で過ごしました。月齢が近いこともあり様々な相互の影響が見られました。入園進級から4ケ月が経ち、この頃になれば人にも環境にも「安心感」が定着していますので、たとえ普段と過ごす場所が異なっていても、安定して生活することが可能となります。
いつもの人数よりもひと部屋の人数が適度に多いことは、決して悪い環境ではなく「人間」という生き物が、人の間で生きていく上で喜びや難しさを感じ、自己の心を育てていくために必要な環境でもあります。たとえ1対1の環境であっても、その中身に身体的、精神的コミュニケーションがなければ、子どもの心と体は「今」を十分に育ち切ることが出来なくなります。
発達の度合いが近いということは、興味関心が相乗的に効果を発揮し、「トコトン遊びきる」に近づくことが出来ます。逆に差があるときは、憧れや「やってみたい」といった意欲の発現へとつながっていきます。また、進んでいる子にとっては、幼さへの優しさ、いたわり、導き、支援などの他者尊重の心の元を育てる機会になります。
度々お話しする多世代で過ごすことの大切さは、この様に人間が生まれもってプログラムされている機能を、発揮することが人間生活には必要であることを示しています。鳥や魚に帰巣本能があるように、人間にも助け合い協力して生活していこうとする本能が埋め込まれているはずです。
昨今そのような本能が失われつつあるような事件、若者の自死が生じていることは、この様な多世代の触れ合いが少ないために起こる必然である気がしてなりません。日本ばかりではなく世界においても分断が進んでいることを考えると、早急に意図的な方法で、血のつながりがない人々が共生できる居場所を作っていく必要性を感じます。
このような意味において厚生労働省が報告【2040年には65歳以上の高齢者の数がほぼピークになると推計され、介護サービスの維持や人材の確保が課題となる中、厚生労働省の検討会は介護と障害福祉を同じ場所で提供する「共生型サービス」など、限られた人材を有効に活用する体制作りが重要だととりまとめ、審議会に報告することになりました。NHKウェブニュース】した展望は的を得ていると言えますが、担い手不足という角度ではなく、「子ども」、「障がい者」、「高齢者」、「現役世代」が、ともに楽しさ苦しさを分かち合い、育ちあう環境を作っていかなければならないと思います。
人間同士の感動はこのようなやりとりがあればこそなのです。関りを避けたり、設定されていなければ作ろうとすることが、結局は子どもたちの成長、親や大人としての育ちも生んでいくことになっていきます。
カテゴリ:教育
シャボン玉とんだ!
2025.07.20


毎週毎週繰り返される月曜日、お家で過ごしちょっぴりさみしさも抱えながら、しかし元気を出して保育園生活を過ごしています。楽しいことがあれば子ども心ははずみ、賑やかな時間を過ごすことが可能になりますが、心配事や体調が悪い、よく眠れなかったなどのリズムがうまくいかなかったときに、心がくじけやすくなったり、健康が悪化してしまうことは幼い子どもによくあることです。
そんな時は決まって「ママ、パパ」、「お家」が恋しくてたまらなくなります。仕方ないことです!3~4歳くらいまでは最も信頼するご家族が一番の「安心感」なのです。健康を損なわないうちに、ゆっくりすごせる環境に移動できるようにお願いしたいところです。案外お家に戻ると「ケロ」と治ってしまうこともありますが、乳児の病気は気持ち半分ですが、様子がいつもと違う時はやはり早めに「お家でゆっくり」を優先してあげてほしいです。
さて今日は水遊びとシャボン玉がメインでしたね!子どもたちはフワフワ浮かび、キラキラ光るシャボン玉が大好きですね!どこまでも追っていき捕まえる、手で「パチン!」とするなど、いつまでも飽くことなく遊んでいます。ここでも海苔の器やジョウゴ、皿などの道具片手に何とかシャボン玉をつかまえようと笑顔でチャレンジしています!
身体や頭、道具を使ってみたくなる素材である「シャボン玉」、子どもたちにとっての「憧れ」と真夏に「大切な人と遊んだ記憶」、そんな楽しさと嬉しさが混ざり合う馴染み深い素材を大切に伝えていきたいですね。
シャボン玉は子どもにとっては「魔法の球?」に見えるのでしょう。得体は知れぬが安心して遊びこめるとても不思議な対象なのだと思います。私の知っているある保育園で「シャボン玉製造機」を作った園長がいました。なんと特許を取られたと十数年前に聞きました。
でも私は素朴な方法がどちらかというと好きです。花火で言えば線香花火のドラマティックな燃焼過程(最後ははかなく火ダマが落ちるあの瞬間)、シャボン玉は1本のストローからそっと息を入れたときの膨らみ、そして虹色に光るあの模様の美しさが大好きです。私にとっては谷内六郎や原田泰治に通ずるノスタルジーな感覚、淡く美しさあふれる色使いのいわさきちひろのような透明感、ユーミンの「海を見ていた午後」などの感覚がよみがえります。昭和を代表する芸術家の情景を思い出させる風物それがシャボン玉です。
そして「シャボンだま」歌の作者にとっては悲しい思い出でもあるのです。【この曲の作詞者である野口雨情の初めての長女みどりは、生後7日目で亡くなっています。この時代は、衛生面でも栄養面でもいまよりずっと悪く、産まれてすぐに命が絶えてしまうことはさほど珍しいことではありませんでした。ある日、野口雨情は、シャボン玉遊びをしている子供たちと遭遇し、亡くなった長女が無事に大きくなったら同じくらいの年頃だろうなと思いながら1番の歌詞を書いたそうです。シャボン玉の曲が完成した後ですが、野口雨情の四女が2歳で亡くなっています。七五三では女児は三歳になると神様に感謝を伝えにお参りしますが、三歳まで生きるというのが第一の目標地点だったのです。まずは三歳まで生き延びるのが目標だった時代ですから、「屋根を超えて飛び立てるギリギリのところで壊れてしまったシャボン玉」に四女への思いを感じるのは私だけでしょうか。あと少しだったのに・・・・。
この時代は、産まれてきた子供が三歳を迎えるのも大変な貧困時代。医療も乏しく、流行病があればたくさんの子供が亡くなっていました。この曲は、浮かばれない魂が成仏できるようにという気持ちを込めた歌だという説もあります。「シャボン玉」を発表したのが、大日本仏教コドモ会が発行していた児童雑誌『金の塔』でした。仏教の雑誌から出したのも意味がある、そう考えられているのだろうと思います。産まれてすぐに亡くなってしまうような悪い風は吹かないでほしい。子供達よ、大きく成長していっておくれ。そんな願いが込められた歌なのでしょう。】
雨情の心情を思い、現代に生きる子どもたちの幸せと、できることは懸命にしてあげるべきが大人の役割であると、思いを新たにいたします。
カテゴリ:教育
大人のあるべき姿
2025.07.12
子どもたちの発達の差異は、偶然上手くかみ合う時もあればそうではない時もあります。進んでいる子にとっては「ものたりなさ」が残ります。まだ手前の発達段階の子にとっては、自分の楽しさ以上を求めることはありません。
これらの食い違いが集団には生じることが常のため、他クラスの子と交流することが有効になってきます。月齢が高い低いからと言って、必ずしも異なる発達段階ではないため、混ざり合うことによって「しっくりする」関係性も有りだと思います。
これは何も子どもたちだけの世界に限ったことではなく、何となく相性が合うおばあちゃんと乳児さんといった関係性を見つけ出す努力も必要だと思います。だからこそ様々な波長を発している、不特定多数との接点を持っていくことで、何かしら唯一の関係性をつくることも可能になってくるのです。
だから子どもたちには、そのような機会を積極的に作っていきたいと考えます。子ども自身は「男の人が苦手」、「賑やかの人が好き、苦手」等々、人に対しても個々異なる感覚を持っています。そんな相性に引き合わせていくことも、大人の環境準備と言えるのではないでしょうか?
人生は好きもあれば嫌いもある、良いもあれば悪いもある、上もあれば下もある、このような不変の2局的対立を避けることはできないのです。であるならば衝撃的、刺激的なものは避けるにしても、できるだけ様々に出会わせてあげたいものです。
モノはと言えば、タライに入った水の感触、シャワーヘッドをもって方々に水かけ、柔らかなぬいぐるみの感触、様々な長さや形を持つすくうための道具、人に対しては、おすもうさん、心身に障がいを持っている人、高齢者、外国の人・・・等々、様々な多様性の中で生活している人々に出会うことは、人生を豊かにそして自身の能力を伸ばしていく力にもなっていくはずです。
このような機会を逃してはなりません。そのためには、大人自身が様々なことに興味を持ち生活している背中を見せていくべきです。子どもは大好きなご家族、保育者、尊敬する人の背中を見て育ちます。大人自身が好き嫌いを超え、しっかりと大地を踏み締めていくことが、結局は子どものたくましい成長にもつながっているのです。
これらの食い違いが集団には生じることが常のため、他クラスの子と交流することが有効になってきます。月齢が高い低いからと言って、必ずしも異なる発達段階ではないため、混ざり合うことによって「しっくりする」関係性も有りだと思います。
これは何も子どもたちだけの世界に限ったことではなく、何となく相性が合うおばあちゃんと乳児さんといった関係性を見つけ出す努力も必要だと思います。だからこそ様々な波長を発している、不特定多数との接点を持っていくことで、何かしら唯一の関係性をつくることも可能になってくるのです。
だから子どもたちには、そのような機会を積極的に作っていきたいと考えます。子ども自身は「男の人が苦手」、「賑やかの人が好き、苦手」等々、人に対しても個々異なる感覚を持っています。そんな相性に引き合わせていくことも、大人の環境準備と言えるのではないでしょうか?
人生は好きもあれば嫌いもある、良いもあれば悪いもある、上もあれば下もある、このような不変の2局的対立を避けることはできないのです。であるならば衝撃的、刺激的なものは避けるにしても、できるだけ様々に出会わせてあげたいものです。
モノはと言えば、タライに入った水の感触、シャワーヘッドをもって方々に水かけ、柔らかなぬいぐるみの感触、様々な長さや形を持つすくうための道具、人に対しては、おすもうさん、心身に障がいを持っている人、高齢者、外国の人・・・等々、様々な多様性の中で生活している人々に出会うことは、人生を豊かにそして自身の能力を伸ばしていく力にもなっていくはずです。
このような機会を逃してはなりません。そのためには、大人自身が様々なことに興味を持ち生活している背中を見せていくべきです。子どもは大好きなご家族、保育者、尊敬する人の背中を見て育ちます。大人自身が好き嫌いを超え、しっかりと大地を踏み締めていくことが、結局は子どものたくましい成長にもつながっているのです。
カテゴリ:教育
人が人間になるために必要な経験!
2025.07.12
子どもたちの世界は人や物との対面とお互いの作用がもたらす行動の結果に溢れています。つまりは「なかまの遊びを観て」、「興味があれば横取り(言葉は良くありません、行動のみで解釈すれば)し」、「取り合い」、「感情を吐露する」過程が必ずあるのです。
この過程を大人は大切にしていく必要があると思います。「ケンカはだめ!」、「ともだちとはなかよくね!」、大人はよく言います。そういうあなたは、子どもの頃けんかや言い争い、人とぶつかることを避けてきましたか?そんなはずはないと思います。
人間は争い、傷つき、嘲笑もされ、悔しい思いを味わい大きく成長していきます。ただし、自己を卑下したり他者を陥れたリ、ずるさを持つような人間にならぬよう、周りの大人は気を付けなければなりません。
そのことは発達の年齢によって「方法」を変えなければならないことも示しています。今の乳幼児期はとにかく欲求を受けとめ、心が満足していくようにしなければなりません。しかし大人から観て、これは「やり過ぎだ」、「人や物を大きく傷つける」と考えれば、諫めることも必要になってきます。
ただしその諫め方は一呼吸置き行うことが肝心です。感情任せに怒ってはいけません。日本人は昔から幼い子どもの諫め方や、道徳に対し子ども心が「クシャ!」とつぶれないような方法を行ってきました。それがわらべ歌などの文化的財産です。
「あそばせうた」、「いさめのことばかけ」、「よろこびをわかつうた」など、種類や場面に応じた「簡単なうた」に合わせた歌いかけ、スキンシップ、表情の表現、言葉のイントネーション等<によって豊かに教え導いてきたのです。古い言葉を使った同じ方法が必要だとは言いません。ただ「子ども心をどの様に扱ってきたか」これは学ぶべき点であることを強くお伝えしたいのです。
今週私は保育者を養成する学校を12校訪問しました。それは求人活動ばかりではなく、昨今の学生像、学校の姿勢を知り、人と会い対話することで様々な情報や考え方を自分自身が学ぶことでもあるのです。
キャリア担当者のお話し内容は、ここ5年くらいで現れている学生さんの心の弱さと、保護者の出過ぎた学校への苦情がどの学校でも聞かれです。一言でいえば「親の過干渉」が目立つのです。二十歳前後の青年をまるで学童期のような扱いをしている「親」の姿が浮かび上がっています。これは深刻です。青年が自立できない要因を大人が作っているに等しいからです。
中途半端ですが、この続きは必ず書きます。しばらくお待ちください。・・・・・・
すみません! 続きです!なぜ親が子どもの学生生活、就職活動にまで口出しするのでしょうか?このことは親自身が「子離れ」できていないこと、その干渉を受けた子どもの「心のもろさ」やふりかかった困難に対する「免疫力」が育たない弊害を生み出します。学校はモラトリアム期間として自己を試し「失敗と成功」、「挫折と達成」、「希望と絶望」を体験する機会であり、真に自立した大人になるための大切な挑戦期間と理解し自己解決を試していかなければならないのです。
これらの権利が一番身近な家族に保障されていない実態があらわになっているのです。人間の育ち、ましてや保育者の養成機関の学生におけるこの状況は危機的な現象と受け止めます。
私はカリヨンは元より蟹江町、そして全国の養成機関に「自律、自立に挑戦する心がある職員」が育っていく必要があると感じます。昨今の幼児施設、小中学校における教職者における盗撮などのとんでもない事件に、育つことを恐れ自己の欲求を解消しようとする「幼い社会人」の存在に人間社会の堕落を感じざるを得ません。しかし「希望」を持ち、関わる人々に伝え、啓蒙していくことの大切さに改めて立ち戻らねばと考える訪問機会となりました。
この過程を大人は大切にしていく必要があると思います。「ケンカはだめ!」、「ともだちとはなかよくね!」、大人はよく言います。そういうあなたは、子どもの頃けんかや言い争い、人とぶつかることを避けてきましたか?そんなはずはないと思います。
人間は争い、傷つき、嘲笑もされ、悔しい思いを味わい大きく成長していきます。ただし、自己を卑下したり他者を陥れたリ、ずるさを持つような人間にならぬよう、周りの大人は気を付けなければなりません。
そのことは発達の年齢によって「方法」を変えなければならないことも示しています。今の乳幼児期はとにかく欲求を受けとめ、心が満足していくようにしなければなりません。しかし大人から観て、これは「やり過ぎだ」、「人や物を大きく傷つける」と考えれば、諫めることも必要になってきます。
ただしその諫め方は一呼吸置き行うことが肝心です。感情任せに怒ってはいけません。日本人は昔から幼い子どもの諫め方や、道徳に対し子ども心が「クシャ!」とつぶれないような方法を行ってきました。それがわらべ歌などの文化的財産です。
「あそばせうた」、「いさめのことばかけ」、「よろこびをわかつうた」など、種類や場面に応じた「簡単なうた」に合わせた歌いかけ、スキンシップ、表情の表現、言葉のイントネーション等<によって豊かに教え導いてきたのです。古い言葉を使った同じ方法が必要だとは言いません。ただ「子ども心をどの様に扱ってきたか」これは学ぶべき点であることを強くお伝えしたいのです。
今週私は保育者を養成する学校を12校訪問しました。それは求人活動ばかりではなく、昨今の学生像、学校の姿勢を知り、人と会い対話することで様々な情報や考え方を自分自身が学ぶことでもあるのです。
キャリア担当者のお話し内容は、ここ5年くらいで現れている学生さんの心の弱さと、保護者の出過ぎた学校への苦情がどの学校でも聞かれです。一言でいえば「親の過干渉」が目立つのです。二十歳前後の青年をまるで学童期のような扱いをしている「親」の姿が浮かび上がっています。これは深刻です。青年が自立できない要因を大人が作っているに等しいからです。
中途半端ですが、この続きは必ず書きます。しばらくお待ちください。・・・・・・
すみません! 続きです!なぜ親が子どもの学生生活、就職活動にまで口出しするのでしょうか?このことは親自身が「子離れ」できていないこと、その干渉を受けた子どもの「心のもろさ」やふりかかった困難に対する「免疫力」が育たない弊害を生み出します。学校はモラトリアム期間として自己を試し「失敗と成功」、「挫折と達成」、「希望と絶望」を体験する機会であり、真に自立した大人になるための大切な挑戦期間と理解し自己解決を試していかなければならないのです。
これらの権利が一番身近な家族に保障されていない実態があらわになっているのです。人間の育ち、ましてや保育者の養成機関の学生におけるこの状況は危機的な現象と受け止めます。
私はカリヨンは元より蟹江町、そして全国の養成機関に「自律、自立に挑戦する心がある職員」が育っていく必要があると感じます。昨今の幼児施設、小中学校における教職者における盗撮などのとんでもない事件に、育つことを恐れ自己の欲求を解消しようとする「幼い社会人」の存在に人間社会の堕落を感じざるを得ません。しかし「希望」を持ち、関わる人々に伝え、啓蒙していくことの大切さに改めて立ち戻らねばと考える訪問機会となりました。
カテゴリ:教育
お散歩の手つなぎ 意思のある人間の手の大切さ!
2025.05.25

お散歩にはとても良い季節です。先回もお散歩の効用とリスクを書いたと思います。今日はお散歩で必要な子どもたちの準備についてお話いたします。
写真を見ていただけば分かりますように、最初に「手をつなぐ」を皆で行っていますね!これは交通量の多い道路を歩くために大変重要な行動です。
まずは人間同士の手はとても温かくて安心感を感じることが出来ます。そしてあぶない箇所に来た時に2人の内どちらかの子が注意を怠り、興味あるものに近づこうと道路に飛び出そうとしても、もう一方の子が動きを止めることが出来ます。もちろん大人が注意義務を怠ってはなりませんが、二重三重の安全確保をするためには、「手をつなぐ」はとても大きな力を発揮します。
最初はみんなでサークルを作る遊びを通して繋がりを体験していますね!ただ単につながっても面白くないです。だからお互い顔を見合わせてにっこりしたり、円を小さくしたり大きくしたりするあそびを歌を唄いながら行うのもとても良い方法です。遊び感覚ですが、まずは手をつなぐことの嬉しさ、一体感である「いっしょだね!」、「たのしいね!」を味わう(人間同士の喜び)ことがとても大切だと思います。
日頃から同じクラスの子どもたちは、特に親しい子同士等の関係性を作りかけていますので、「みんな」、「全員」といった行動はまた異なる感覚だと思います。ですがこのような一体感を感じていくことで、「なかまをおもう」、「泣いたら助ける」、「危ない時は伝える」などの行動へと結びついていくと思います。
たまに他の園でおさんぽロープ?なるものにつかまって歩いている幼児集団を見かけたり、子どもの背中に飼い犬の散歩でよく見かけるリードを使っておられるのを見かけたりします。犬好きの方には失礼かもしれませんが、「子どもは人間」ですので、笛や太鼓、拘束(ロープ)によって自発的行動を抑え込んではならないと思います。たとえ幼い子どもでも高度な「心」を持っています。尊重するとは様々な方法で、その大切さを伝えていくことです。決して外的な力で制御するものではないのです。
介護現場においても身体拘束(ミトン・ベルト等)は人間の尊厳を妨げるものとして、たとえ転倒や落下のリスクがあっても余程でなければ行わないのがルールになっています。社会的弱者(こども、高齢、障がい等)に対して、民主的な方法を妨げることはあってはならないのです。
だからこそ「自分で注意する力」、「他者の安全を理解できる力」を身につけることが、「人間らしさ」を生きていく最も崇高で大切なことなのです。しかし理想ばかりで命を失ってしまっては本末転倒です!十分に大人が配慮していかなければならないことは言うまでもありません。
カテゴリ:教育