終戦の日(戦後77年)
2022.08.15
今日8月15日は「終戦の日」。太平洋戦争から77年です。今年も沖縄慰霊の日(6/23)、広島原爆の日(8/6)、長崎原爆の日(8/9)と記念行事を経て本日を迎えました。毎年この機会を通じて戦争のことを考えるようにしていますが、今年はもう少し深く歴史に刻まれた事実を見つめてみようと思いました。
戦争に関するテレビ番組はこの時期多いため、録画し観ています。その中でも兵士の立場からの番組「歩兵第11連隊の太平洋戦争」に今までにはない戦争の深い傷跡と悲しみを学びました。「陸軍 歩兵11連隊」は精鋭部隊と言われ古くは西南戦争、日清戦争、日露戦争に参加実績がある伝統ある部隊です。しかし、中国戦線では便衣兵(べんいへい)【一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のこと。協力民間人の華僑を含む。】の存在により、多くの一般市民をも虐殺した事実、病院船偽装事件【橘丸事件(たちばなまるじけん)は、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船「橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊・武器を輸送した事件。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出した。】などに関係しました。
兵士は、上官からの命令により、やむを得ず虐殺に手を染める。感覚は麻痺し、人を殺すことさえ何とも感じなくなっていく。追いつめられれば赤十字船を装い兵士と武器を移送する。理性や人間らしさを失い、自らの精神を守るため「感じない心」を作り上げる。そうでもしなければ精神は破壊されてしまう。おそらくこの部隊に限られたことではなく、戦場のあちこちで起こっていたことだと考えられます。番組では、戦後生き残った元兵士、罪を問われ処刑された兵士、戦争参加への動機、戦争指導者のあいまいさ、責任逃れ、保身等、幅広く伝えていました。
「やむを得ず戦争を行う(太平洋戦争開戦の日、昭和16年12月8日に放送された、開戦にあたっての東條英機首相の演説。)」ことがもたらした結果は、余りにも惨い結果をもたらしてしまいました。敵味方とは言えお互いに家族がある、恨みがあるわけではない者同士が殺しあう悲惨、兵士ばかりではなく東南アジア(中国、台湾、ベトナム、インドネシア、マレーシア、タイ、シンガポール等)の一般市民の命を直接あるいは間接的(米軍のアジア日本基地、資源工場の爆撃)に奪い、皇民化政策を押し進め、民族の独立をも妨げました。自存自立の目的を超え、欧米からの植民地解放を掲げた大東亜共栄圏とは名ばかりとなり、侵略、虐殺、略奪、強姦などを行い、新たな憎しみを生んだのです。しかし、戦場で「人が人でなくなる」ことは昨今のウクライナとロシアをはじめ、数々の紛争を振り返っても明らかなことです。極限の状態が理性を奪うのです。
為政者はいつも言います。「国を守るための軍備増強」、「攻められる前に防衛が必要(敵基地攻撃)」、「憲法を改正し自衛隊を合法化する」。これらの法案を簡単に許してしまうことは、二度と起こしてはいけない戦争に大きく接近することです。
冒頭の首相発表「やむを得ず・・・」は、自己を正当化し、野心と国家主義のため国民を欺く理由付けに他ならないと思います。都合のいい言葉、一見納得できる説明に決して惑わされないためには、太平洋戦争を良く学び、許されるべきではない主張を認めてはなりません。兵士として従軍したほとんどの人が訴えます。「戦争はやるものじゃない。」、「二度と起こしてはならない。」体験者の言葉を重く受けとめ、我々は用心深く政治を監視していかなければなりません。
戦争に関するテレビ番組はこの時期多いため、録画し観ています。その中でも兵士の立場からの番組「歩兵第11連隊の太平洋戦争」に今までにはない戦争の深い傷跡と悲しみを学びました。「陸軍 歩兵11連隊」は精鋭部隊と言われ古くは西南戦争、日清戦争、日露戦争に参加実績がある伝統ある部隊です。しかし、中国戦線では便衣兵(べんいへい)【一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のこと。協力民間人の華僑を含む。】の存在により、多くの一般市民をも虐殺した事実、病院船偽装事件【橘丸事件(たちばなまるじけん)は、1945年(昭和20年)に日本陸軍が国際法に違反して病院船「橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊・武器を輸送した事件。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出した。】などに関係しました。
兵士は、上官からの命令により、やむを得ず虐殺に手を染める。感覚は麻痺し、人を殺すことさえ何とも感じなくなっていく。追いつめられれば赤十字船を装い兵士と武器を移送する。理性や人間らしさを失い、自らの精神を守るため「感じない心」を作り上げる。そうでもしなければ精神は破壊されてしまう。おそらくこの部隊に限られたことではなく、戦場のあちこちで起こっていたことだと考えられます。番組では、戦後生き残った元兵士、罪を問われ処刑された兵士、戦争参加への動機、戦争指導者のあいまいさ、責任逃れ、保身等、幅広く伝えていました。
「やむを得ず戦争を行う(太平洋戦争開戦の日、昭和16年12月8日に放送された、開戦にあたっての東條英機首相の演説。)」ことがもたらした結果は、余りにも惨い結果をもたらしてしまいました。敵味方とは言えお互いに家族がある、恨みがあるわけではない者同士が殺しあう悲惨、兵士ばかりではなく東南アジア(中国、台湾、ベトナム、インドネシア、マレーシア、タイ、シンガポール等)の一般市民の命を直接あるいは間接的(米軍のアジア日本基地、資源工場の爆撃)に奪い、皇民化政策を押し進め、民族の独立をも妨げました。自存自立の目的を超え、欧米からの植民地解放を掲げた大東亜共栄圏とは名ばかりとなり、侵略、虐殺、略奪、強姦などを行い、新たな憎しみを生んだのです。しかし、戦場で「人が人でなくなる」ことは昨今のウクライナとロシアをはじめ、数々の紛争を振り返っても明らかなことです。極限の状態が理性を奪うのです。
為政者はいつも言います。「国を守るための軍備増強」、「攻められる前に防衛が必要(敵基地攻撃)」、「憲法を改正し自衛隊を合法化する」。これらの法案を簡単に許してしまうことは、二度と起こしてはいけない戦争に大きく接近することです。
冒頭の首相発表「やむを得ず・・・」は、自己を正当化し、野心と国家主義のため国民を欺く理由付けに他ならないと思います。都合のいい言葉、一見納得できる説明に決して惑わされないためには、太平洋戦争を良く学び、許されるべきではない主張を認めてはなりません。兵士として従軍したほとんどの人が訴えます。「戦争はやるものじゃない。」、「二度と起こしてはならない。」体験者の言葉を重く受けとめ、我々は用心深く政治を監視していかなければなりません。
カテゴリ:戦争
沖縄本土復帰50年
2022.05.24
1972年5月15日沖縄が日本に返還されてから今年で50年が経ちました。太平洋戦争末期の沖縄戦以降、住民の皆様は言葉にできない「哀しく、苦しく、悔しい思いや経験」を数々してこられました。本土で過ごしてきた私たちは当事者ではないため、心の底から思いを共有することはできませんが、沖縄で起きてきた事実をよく知り理解しようと努めることが必要です。世論調査でも米軍基地の問題、事件事故、生活について、沖縄県民と本土民の認識には差異がありました。一国民として「他者の靴を履く(ブレイデイみかこ著)」ことに思いを馳せ、考えていきたいと思います。
沖縄はその立地ゆえの数奇な歴史をたどってきました。大国の唐、薩摩藩、明治政府そしてアメリカ占領下等統治者が変わり翻弄されながらも独自の文化を生み守ってきた歴史があります。唐の冊封(さくほう)体制下、「踊り奉行」なるおもてなしの芸能役割まで作り、戦争を避け中国との関係を良好に保つ知恵を使い、一方薩摩、明治政府とのやり取りについても平和裏に譲歩しながら、琉球処分で王朝統治の幕を閉じました。
そのような歴史をたどってきた沖縄が、最大の苦難である戦争の犠牲になり、太平洋戦争唯一の国内地上戦の場となったことで、9万人(日本全戦没者19万人)もの一般市民の死者を出しました。戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争に沖縄の基地から米軍機が飛び立ち、同基地面積は本島だけで総面積の15%、日本全土の70%ほどが沖縄県に集中しています。基地があることで米軍の事件事故は後を絶たず、騒音問題にも苦しめられているのが現状です。また、本土人の心に潜む国内の南北方面民族に対する優越意識は、古来からの由緒ある伝統を卑下したうえ、戦前から国は「うちなーぐち(沖縄地方の方言)」の使用も禁止し、皇民教育を押し付けてきました。そのような政策により大都市では、居住や就職についても拒絶を受け、生きる権利すら侵害を受けてきました。
荒れ果てた地、多くの犠牲者を出した沖縄の人々は、それでも苦難の歴史をバネに強く立ち上ろうとしました。「命(ぬちどぅ)宝」、「なんくるないさー(あるべき様に自然になるものさ)」他にも強さを表す「ウチナーグチ」は数多くあります。沖縄の人々の心に生きる「芸能の伝統」は、小那覇舞天、照屋林助、笑築過激団 (しょうちくかげきだん)など苦しさを風刺と笑いに変え民衆を勇気づけてきました。また、音楽においてもコザでアメリカ兵相手のロックグループ(紫、マリー・ウィズ・メデューサ)が活躍しましたが、戦場へ向かう兵士の精神状態を満たすための演奏は、罵声の中、生きるか死ぬかの真剣勝負だったようです。アメリカ文化をたくましく取り込みながら、その後沖縄アクターズスクール(スピード、ダパンプ、安室奈美恵 他)はポップカルチャーとして日本全土に深く浸透し、漸く自身のアイデンティティー(日本人、沖縄人)である島唄(ビギン、夏川りみ)にたどり着いたのです。その力の源は反骨精神の持続に他ならなかったと思います。「武力使わず自然を愛する 自分を捨てて誰かのため何かができる(モンパチ 琉球愛歌)」反発する心をバネに、歌と笑うことでたくましく伝えようとする、そんなウチナンチュのぶれない強さに学び、我々ヤマトンチュもできることをしなければなりません。
米軍基地の存在が安全保障上必要不可欠であるならば、せめて全県全国民が平等に負担を負うべきです。自分の居住区に戦争遂行集団が出現することは、今問題になっている敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有する場所として攻撃の対象になることでもあります。現代から過去を見通しても、核保有、NATO加盟、武器供与なども一歩間違えば、考えられない暴挙を行う国との軍事的緊張を高め、命を脅かされる確率が高まることは誰もが分かることです。中国の覇権を警戒するアメリカおよび日本政府にとって、戦略的見地から南方に位置する沖縄県、離島が基地として好都合であることは周知のことですが、日本国憲法の三大原則(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を堅持し、少しでも戦後の沖縄県民の痛みを理解し、分かち合っていく意思を具体的政策や文化で示していかなければなりません。
「空の青さと海の青」、美しい自然に恵まれたトロピカルな島、癒しの島には、今に至る血のにじむような苦難の歴史があったことは事実です。政策を市民の生活目線まで掘り下げ、納得いくものとするため、私たち一人ひとりが「癒しを与えられる」だけではなく「安心と安全を与える」立場へ意識改革が求められているのではないでしょうか。復帰から50年も経てしまいましたが、今からでも変えられるはずです。代表者である政治家を選ぶのは私たち一国民なのですから。そのためにもプロパガンダやフェークニュース、国家の意図的扇動に惑わされることなく、正しい知識の元、自律した判断力を学ばなければなりません。
沖縄はその立地ゆえの数奇な歴史をたどってきました。大国の唐、薩摩藩、明治政府そしてアメリカ占領下等統治者が変わり翻弄されながらも独自の文化を生み守ってきた歴史があります。唐の冊封(さくほう)体制下、「踊り奉行」なるおもてなしの芸能役割まで作り、戦争を避け中国との関係を良好に保つ知恵を使い、一方薩摩、明治政府とのやり取りについても平和裏に譲歩しながら、琉球処分で王朝統治の幕を閉じました。
そのような歴史をたどってきた沖縄が、最大の苦難である戦争の犠牲になり、太平洋戦争唯一の国内地上戦の場となったことで、9万人(日本全戦没者19万人)もの一般市民の死者を出しました。戦後も朝鮮戦争、ベトナム戦争に沖縄の基地から米軍機が飛び立ち、同基地面積は本島だけで総面積の15%、日本全土の70%ほどが沖縄県に集中しています。基地があることで米軍の事件事故は後を絶たず、騒音問題にも苦しめられているのが現状です。また、本土人の心に潜む国内の南北方面民族に対する優越意識は、古来からの由緒ある伝統を卑下したうえ、戦前から国は「うちなーぐち(沖縄地方の方言)」の使用も禁止し、皇民教育を押し付けてきました。そのような政策により大都市では、居住や就職についても拒絶を受け、生きる権利すら侵害を受けてきました。
荒れ果てた地、多くの犠牲者を出した沖縄の人々は、それでも苦難の歴史をバネに強く立ち上ろうとしました。「命(ぬちどぅ)宝」、「なんくるないさー(あるべき様に自然になるものさ)」他にも強さを表す「ウチナーグチ」は数多くあります。沖縄の人々の心に生きる「芸能の伝統」は、小那覇舞天、照屋林助、笑築過激団 (しょうちくかげきだん)など苦しさを風刺と笑いに変え民衆を勇気づけてきました。また、音楽においてもコザでアメリカ兵相手のロックグループ(紫、マリー・ウィズ・メデューサ)が活躍しましたが、戦場へ向かう兵士の精神状態を満たすための演奏は、罵声の中、生きるか死ぬかの真剣勝負だったようです。アメリカ文化をたくましく取り込みながら、その後沖縄アクターズスクール(スピード、ダパンプ、安室奈美恵 他)はポップカルチャーとして日本全土に深く浸透し、漸く自身のアイデンティティー(日本人、沖縄人)である島唄(ビギン、夏川りみ)にたどり着いたのです。その力の源は反骨精神の持続に他ならなかったと思います。「武力使わず自然を愛する 自分を捨てて誰かのため何かができる(モンパチ 琉球愛歌)」反発する心をバネに、歌と笑うことでたくましく伝えようとする、そんなウチナンチュのぶれない強さに学び、我々ヤマトンチュもできることをしなければなりません。
米軍基地の存在が安全保障上必要不可欠であるならば、せめて全県全国民が平等に負担を負うべきです。自分の居住区に戦争遂行集団が出現することは、今問題になっている敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有する場所として攻撃の対象になることでもあります。現代から過去を見通しても、核保有、NATO加盟、武器供与なども一歩間違えば、考えられない暴挙を行う国との軍事的緊張を高め、命を脅かされる確率が高まることは誰もが分かることです。中国の覇権を警戒するアメリカおよび日本政府にとって、戦略的見地から南方に位置する沖縄県、離島が基地として好都合であることは周知のことですが、日本国憲法の三大原則(国民主権、平和主義、基本的人権の尊重)を堅持し、少しでも戦後の沖縄県民の痛みを理解し、分かち合っていく意思を具体的政策や文化で示していかなければなりません。
「空の青さと海の青」、美しい自然に恵まれたトロピカルな島、癒しの島には、今に至る血のにじむような苦難の歴史があったことは事実です。政策を市民の生活目線まで掘り下げ、納得いくものとするため、私たち一人ひとりが「癒しを与えられる」だけではなく「安心と安全を与える」立場へ意識改革が求められているのではないでしょうか。復帰から50年も経てしまいましたが、今からでも変えられるはずです。代表者である政治家を選ぶのは私たち一国民なのですから。そのためにもプロパガンダやフェークニュース、国家の意図的扇動に惑わされることなく、正しい知識の元、自律した判断力を学ばなければなりません。
カテゴリ:歴史
ウクライナに思いを寄せて
2022.04.01
ウクライナでは今も多くの市民や兵士が傷つき、亡くなっている人、家族と離れてしまっている人々がたくさんいる。30日の中日新聞15面にて【「島唄」に込めた沖縄への尊厳】と題したレポートを読んだ。30年前ヒットした「島唄」は、作詞作曲した宮沢和史さんの戦争、沖縄に対する切実な思いがこもった楽曲であった。皆さんも一度は耳にしたり、口ずさんだことはおありかと思う。宮沢さん自身が本土出身(ヤマトンチュ)。これもなんとなく沖縄出身者(シマンチュ)ではないことを感じてはいたが、深くは考えていなかった。「風を呼び嵐が来た(米軍が来て戦争がはじまり)ウージの森(集団自決の場所)で千代のさよなら・・・、このまま永久に夕凪を(平和を願う)」一見男女の恋愛をうたっているように思えるが、実は戦争の悲惨や残酷さが込められていたのだ。宮沢さんは語る。(引用、要約)「日本の平和は多くの犠牲があってもたらされた。勝手に来たのではない。決して忘れてはいけない。島唄をつくってから決めたのは、歌手として、人として、沖縄を通りすぎるのではなく、根を生やすことでした。」、(解説)「それがヤマトンチュである宮沢さんの沖縄への尊厳の証だとも考えている。」沖縄を通し平和の意味を問い直し、今やれることは何かを考え実行していくことが、私たちの祖先が過去に行った過ちから学んだ貴重な経験のはずだ。遠い国で家族を守るため立ち上がったウクライナの人々、そして自国の代表者が他者の命を奪う戦争に踏み切った事実に、自己の命も立場も顧みることなく反対の姿勢を示す勇気ある一部のロシア市民を後押しし、やれることを見つけ訴えていくことが、武器を持たず平和を持続していくための最大の武器であると心打たれる。宮沢さんの活躍を応援し益々のご活躍を祈っていきたい。ヤマトンチュ、シマンチュ、日本人、立場や生きる次元、時代が異なってはいても、専制的な為政者の力よりも人民の力は根強く、そして忍耐強いと信じている。戦争そのもの、戦争にいつの間にか巻き込まれるような制度改正には踏み込んではならない。
カテゴリ:戦争