植物のオリンピック!
2021.07.24
おはようございます。今日は保育園の自然環境についてお知らせいたします。本園は平成29年4月に運営をスタートしましたが、開園当初は草木が1本もなくとてもさみしい園庭でした。5年を経過し、毎年植樹することで徐々に様々な野に咲く草花、ダンゴムシ、ミミズ、カエル、蝶、ゴマダラカミキリ、トンボ等、たくさんの生き物が通う自然環境豊かな園庭になってきました。まさに生き物のオリンピックがこの夏も展開されています!子どもたちはとても興味深くかかわり、生き物から様々を学んでいます。以前見学させていただいた加藤建設(蟹江町内)環境課3人の社員様に来園いただき園庭環境を見てもらいました。様々なご意見をいただきとても参考になりました。また、旧東部水源も敷地内を通っているため、その水源の活用についても相談に乗ってもらいました。水質は問題ですが、可能であれば小さな田んぼを作り、泥遊びやさらに生物を呼び込める環境を作り出し、地域の皆様が関わったり、利用できる場所にしたいという夢も持っています。私たち保育園職員だけでは本当の意味での地域貢献ではないと思います。水の町である蟹江町の皆様が、安心して水がもたらす自然に触れ合い、作り、遊び、学び、憩う一角を目指していきたいです。皆様と一緒に作り上げていけたら嬉しく思います。住む場所は自分たちで作り出してこそ、心の中の故郷となっていくはずです。私は名古屋市守山区に住んでいますが、ここ蟹江町を私自身の心の故郷にしていきたいと考えています。今後も暖かくお見守りください。そして、いつの日かご一緒できることを楽しみにしています。現在の園庭の自然環境の写真を掲載します。どうぞご覧ください。

クヌギ

カヤツリソウ

風船カズラ

ラズベリー

レンギョウ

イチジク

びっくりグミ

モクレン

クヌギの新葉

きんもくせいの新葉

シロツメクサ

クリ

畑

キュウリ

朝顔

クマゼミ抜け殻


クヌギ

カヤツリソウ

風船カズラ

ラズベリー

レンギョウ

イチジク

びっくりグミ

モクレン

クヌギの新葉

きんもくせいの新葉

シロツメクサ

クリ

畑

キュウリ

朝顔

クマゼミ抜け殻

カテゴリ:地域の皆様へ!
犬の権利
2021.07.14
昨日、一昨日とテレビのニュースや新聞で鈴鹿の信号電柱が、犬の尿素によって腐食し突然倒れたという報道がありました。事実だけを知れば「これは大変だ!」もし通行人や車にあたっていたらと恐怖を感じます。私が疑問に思ったのは、このことに関する警察、獣医師のコメントと報道の在り方です。「電柱にはかけないでください」、「排尿は家でさせてください」。マーキングは犬などが縄張りを主張するために備えている本能です。このコメントは犬の本能を否定しているものと感じました。犬は縄文時代より家畜同様人と深いつながりを持った生き物です。人間と共に過ごしてきた歴史があります。時代の流れの中で人は犬の品種を改良したり、本来屋外で生活するはずの機能を備えている動物を屋内の安定した環境の中で生活させたり、服を着せたり、はたまた色を塗ったり。ここまで行くと人間の一方的な想いの中に生き物を当てはめようとしているとしか思えないのです。そう言う私もインコやメダカを屋内で飼ったりしてきました。どこまでが許されることなのでしょうか?そもそも人間が決めてしまってよいのでしょうか?では植物は?様々な疑問が心をよぎります。しかし、今回は人間のマナーの問題としてとらえているのみで、犬の権利に触れていません。他に方法はないのでしょうか?よく見かけるのは水の入ったペットボトルを持った方が、犬のマーキングした箇所によく水をかけておられる姿です。やるべき方はしっかりやってます。同じ個所にマーキングするのも動物の習性です。支柱にかけられても尿素が浸透しない作りにするとか、人間側が異種である犬の権利を守り、共に快適に過ごす方法や考え方があるのではないでしょうか。また、報道機関も生命に関する見方、発言は慎重にすべきです。正否を報道するのではなく、正否を考えられる参考意見や対極的見方を提示し、視聴者に考えてもらう姿勢も必要ではないでしょうか?影響力の大きいマスメディアだからこそ注意が必要です。私がこの文章を書くことも少しく影響があることと思います。私も含め責任ある言動が必要であると自戒を込めお伝えさせていただきました。
カテゴリ:私見
生ずること滅すること
2021.07.12
おはようございます。大そうなテーマを掲げましたが、まだまだ人生を語るほどには生きていません。思えば高校生のころ、体育祭、文化祭の終わりにフォークダンスを行い、気になる人と手をつなぐことにドキドキしながら過ごした時間が懐かしく思い出されます。そして、なぜか最後に体育祭のシンボルとしてクラスメートと夜遅くまで残り、丹精込めて作った張りぼてのマスコット(高さは様々ですが、中には10m近くのものもあった。竹の骨組に新聞紙を張り、その上から模造紙を貼り重ね最後に着色。管理教育の校長をヒットラーになぞらえた政治的な作品、漫画のキャラクターなどなど)を燃やしました。中には爆竹を仕掛けてあるものもあり、その最後は巨大な炎の中で壮絶に燃え尽きていきました。後には何とも言えない哀しさと「さあ、切り替えるぞ!」といった前向きな心も生まれました。思いを込めて皆で喧々諤々と作り上げた象徴を、自らの手で消し去る。私はまだ60歳ですが、若い時には若さなりの生滅を感じ、そこまでの過程で生じる躍動感と終わるときの虚しさは、何とも言えないものだったと振り返ります。終わりがあってこそ生きるということも輝いてきます。対であることは人生には多々あるものですね。苦楽、表裏、雨晴れ、外中・・・そして生滅。失うものがあるからこそ得ていることに感謝し、味わい尽くし大切に日々を生きていかねばならないと思います。今日はなにをしましょうか?私の小さな力で何ができますか?そんな問いを忘れず過ごせることを「ありがたい」と感じます。「生きてるだけで丸儲け」、そんな庶民的な言葉がとてもいとおしく感じる今日この頃です。
カテゴリ:私見