お知らせ

銀行員 証券マン 政治家 検事正 欲にまつわる醜態

2024.12.22

孔子の教えに立ち返る
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おはようございます。
金融関係者の犯罪行為、政治家の不祥事、検事正の性暴力、教育者の性犯罪等々、地位、重要なポストに就き、社会的正義を貫くべき立場の人々の不正や人間性を疑うような行為が続いています。国、会社、組織それぞれを支えるはずのリーダーの所業は、国民の「信」を失墜させる行いばかりです。
この様な状況をどのように捉えるべきでしょうか?繰り返し見直している本の中にヒントがありました。戦後の吉田茂首相と進駐軍マッカサー元帥の会話です。マッカーサー「昭和の日本軍人は明治の軍人とはその質において差があった。」吉田「その差は学校出身と私塾出身の差である。」と。
私塾【「私塾」には、咸宜園(大分・廣瀬淡窓)、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、松下村塾(山口・吉田松陰)、適塾(大阪・緒方洪庵)、洗心洞塾(大阪・大塩平八郎)、梅花塾(大阪・篠崎小竹)等があり、世に知られている。また、江戸・京・大坂を中心に、無名ながらも高度な教育内容を誇った個性的な私塾が数多く存在した。】における教育は志を持った若者が、国のために一心不乱に学びを重ねた場所であり、塾長も強い信念を持ち場合によっては自身の命をも省みず事に向かっていく志を貫いていた。儒教や陽明学他中国の思想と西洋の合理主義、技術を学び、自己を厳しく律し、庶民、農民のために政治、教育を行おうとする武士道に基づく清廉潔白な思想は、厳しさの中で生きる日本人の大きな支えとなっていた。
この様な厳しさに身を置き切磋琢磨を実行した指導者は、やはり「信」を得るにふさわしい人物像であったに違いないと思います。「軍事力を捨て」、「食を捨て」最後に残るのは「信」、「民(たみ)、信(しん)無(なく)んば立たたず 孔子」、まさに論語の通りです。

カテゴリ:事件

15歳の命

2024.12.22

子どもたち 家族が夢を持てる社会にしたい!
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絵 谷内六郎 

おはようございます。
塾の帰りにマクドナルドで品物を注文しようと並んでいた15歳の少年少女が刃物で刺されました。無差別かつ凶悪な行動に恐怖を感じます。そして未来ある子どもたちが傷つけられ命も奪われてしまったことに大きなショックを覚えます。
17日付け中日新聞「中日春秋 コラム」には、アンジェラアキさんが歌いヒットした「手紙 拝啓十五のきみへ」を通して亡くなった中島さんを悼む内容が掲載されていた。悩み多き思春期に向けて大人になった自分が十五歳の自分に手紙を書き励ます。歌詞の内容は「生きているだけで価値がある」を伝えています。そんな貴重な命が意味の分からない通り魔的犯行?で失われてしまったことは、同じ世代に大きな影響を及ぼしかねません。生きてさえいれば何とかなる、苦しいけれども小さな喜びも感じることが出来たはずです。
この事件はおそらく氷山の一角に過ぎないと感じます。ご両親の悔しさ、無念さを思うと同じ子を持つ親として怒り、解決できない感情をお持ちのことと考えます。今は近くの皆様、学校関係者がひたすら寄り添い一緒に悲しみを共有するほかない時かもしれません。
ただなぜこのような「人の命」をいとも簡単に奪ってしまうような人間が、育ってしまったのかは私たちを含め社会全体が向き合い、考えていかなければならない重大な問題だと思います。「子ども時代からの育ち」は良いも悪いも大人になった時に結果として現われます。真に子どもが正しく生きることが出来る子育て環境、教育環境、世の中であるかどうかを見直さなければなりません。

カテゴリ:事件

市民の過半が「子ども」だと民主制は破綻する

2024.12.22

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おはようございます。
12月8日(日)の中日新聞「視座」は、いつも考えさせられる内容で納得している『内田 樹 氏』のコラムでした。
【内容は兵庫県知事のSNS利用の公選法違反(選挙について広報会社に、選挙運動の対価として報酬を支払うことを禁じている公選法)発覚は選挙にまつわる膿を出すという意味においては効果があったと言える。なぜなら公選法は性善説に基づいて設計されている厳粛な事実を前景化しているから、例えば無人販売所の野菜、商品をセルフでいくらかの金額を箱に投入することで品物を購入する。明らかに人間の良心を信じた販売の方法である。万が一誰も見ていないから代金を投入せず物を持ち去る人がほとんどであれば、人間を疑うこと(性悪説)から始めなければならなくなる。そうなると監視員、防犯カメラ等経費がかさむと共に、だれも信用できない殺伐とした社会になっていきます。】
民主制は性善説に基づく不出来な制度です。だから市民が成熟していないと機能しなくなります。帝政、王政、貴族政は市民をバカのままにしておく必然があるのです。その方が意のままに治めやすいからです。市民の成熟度が増していけば、規則や法律様々な縛りは必要がなくなるはずです。国民が自分自身を節制できなくなれば縛りや法律は自ずと厳しくなります。そのことは道徳や倫理を忘れ去ってしまった人間の醜悪な姿に他なりません。何のための、誰のための制度であるのかを今一度思い出し考えていく必要があります。

カテゴリ:政治・国際状況

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