お知らせ

子どもと共に成長するのは大人?

2023.11.11

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仲間は 遊びの提示者でもあります

0歳児クラスの発達は目覚ましく、1時間前にできなかったことが目の前でできるようになることもしばしばあります。少し目を離したすきに発達は進むのです。しかし私たちでさえその瞬間を写真で残すことは難しいことです。子どもたちにとっては自分自身の勝ち取った発達を、一緒に喜んでくれる大人の存在を何より必要としていますので、カメラ片手にというわけにもいきません。

集団の場にいることは、誰かから何かしら影響を受けるということです。よくある事例ですが、きょうだいが多い家庭では、兄、姉、妹、弟と一緒に過ごすことで様々な心持が生まれます。自分より先の発達を行く存在に対しては、「憧れ(かっこいいな)」、「希望(あんなふうにやりたい)」等の意欲を持ちやすいと言えます。逆に年少者に対しては「弱い者、幼い者」に対するやさしさ、いたわりなどの感情が育っていくことが期待されます。劣悪な環境ではなくある程度の「嬉しさ」や「明るさ」がある家庭であれば、このような育ちの環境はたくましく育つため好都合だとも言えます。

保育園などの集団の場は上記の家庭環境に似通っています。「おもしろそう」と感じる他者の遊び方はとても刺激的です。また、年配者、日頃会ったことのない人、たまにお散歩ですれ違う人等、出会う場面も密度も異なる人との接点は、子どもたちの心の持ちように大きな影響を与えているはずです。子どもは三頭身でかわいらしく見えるようにできています。それはかわいがってもらうための人間が持ちおあわせた成長のための戦略でもあります。

私にも孫がいます。1日一緒にいると子育てが一段落した身には、孫が立ち去った後「どっと疲れが生じる」のも現実です。しかし、1時間も経たぬうちにまた会いたくなります。本当に子どもの持つ吸引力?は凄いとしか言えませんね。まったく!((*^_^*)

カテゴリ:子育て

クマの出没

2023.11.11

「なめとこ山のクマ」宮澤賢治alt

パニックになる 慣れてしまう 様々な姿は どうして起きるのだろうか
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「海童神社」長崎県新上五島
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こんにちは!
野生動物の里への出没頻度が10年前?くらいから増してきています。サル、シカ、イノシシは農作物、植林苗を食べてしまうことから農業、林業従事者を悩ませています。今年は輪をかけ出没が目立っていますが、とうとうクマが食べ物を求め人里に現れてきてしまっています。クマは本来山奥で生活し、ブナやどんぐりの実、植物、果物を主食とする雑食性の生き物ですが、アリや昆虫などもたんぱく源として食べています。特に冬眠前の秋は体内に脂肪を蓄積しなければ冬を越せないため、活動が活発になります。以前は十分な自然があったため生息域に変化はありませんでしたが、昨今はクマの生活場所が少なくなり人との接点が増しています。。
何故そのようなことになったかは、広葉樹を伐採しスギやヒノキなどの針葉樹(建築資材用)を植林したことで、クマが食べるものが減ってきている(クマは人工林では生きていけないのです。)、温暖化による気候変動など人間の活動が影響していることが多いと言われています。クマがやむを得ず人を襲い命まで奪ってしまったことは放ってはおけませんが、一概に野生動物を悪者扱いすることは間違っていると考えます。元々クマは動物性の食生活をしてきたわけではなく、人を襲うのも身に危険を感じた時に限られていたはずです。また、食べ物がなくシカや家畜(牛)の味を覚えてしまったことも一因です。最近では車の音や人間が作り出した人工的空間にも慣れてしまい、一定の距離を保った共存が難しくなってきています。
日本に限らず狩猟生活を営んでいた人々は、マタギの狩りや漁師の捕鯨に見られるように、食物を得るために生き物を殺すことに関し、「山の神の使い」として崇め魂を鎮めてきました。クジラも同様(クジラ塚)です。命を奪うことに関して感謝と怖れ、崇めることを忘れなかったのです。現代社会ではまるで人間がすべてを支配しているかのような振舞をしています。小さな虫たちも生き物同士の共生関係の中で、意味を成し生きていることを忘れてはならないと思います。自然界のバランスを勝手に破壊してきた人間は、罪深い生き物と言わざるを得ません。毎日流される一方的にクマを敵視するような報道は、何も知らなければ鵜呑みにされてしまうことでしょう。人間は立ち止まり考える必要があります。いったい誰がクマを追いつめたかを。

カテゴリ:生き物・自然・人間

子どもの力と雨上がりの園庭

2023.11.08

格闘! カボチャと穴と水たまり
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季節がうつろい始めても、やはり雨上がりの園庭は子どもたちにとって魅力的なフィールドに変わるようです。土も草も雨に当たり様子が違うことを肌身を通して感じ取っています。築山の砂は水で固まり、乾ききっている時よりもストップが効きます。川砂でなく山砂には何割か粘土が含まれています。その違いを足の裏できっと感じていることでしょう。

異なる場所で同じような素材に出会ったとき、きっと「あの時の感触だ」と体が思い出すはずです。しかし自然はそんなに甘くはありません。少しでも粘土質が多く固い地盤であれば、滑って転ぶことも起こりえます。そんな多種多様な環境を「怖い」と感じるか、「おもしろい」と感じるかで取り組む姿勢は変わっていきます。危険な場所に対する心と体の備えは、この小さな体験の積み重ねによって身についていきます。今の年齢でも無理なく挑戦できる自然は、それなりの「判断力」、「実行力」を育てます。「案ずるより産むが易し」、「習うより慣れろ」、先人が残した格言は間違ってはいません。人は何千年も前から同じ過ちや発見を繰り返しているのです。経験と歴史から学ぶことは「転ばぬ先の杖」とも言えます。でも転んで痛い思いをしなければ、本当の意味へはたどり着けないのも人間の宿命かもしれませんね。話を戻します。

既成のもの(タイヤや固定遊具等)はその性質に変化が少ないため、性質を身体がキャッチすれば意外と使いこなせます(例えばタイヤのどこに乗れば体が安定するか、内側に落ちないバランスのとり方等の身体使い)。しかし自然物は水(土はゲル状に変化)や太陽光(光は氷を溶かし)等の作用や影響による変化が多様で大きいため、目で見る、手で感触を確かめる、匂いがする、音を聞くことによりそのたびに異なる変化に驚きが大きい素材なのです。このような多様な素材を作り出した地球、宇宙は、やはり人間の身体と心にも存在しているのだと感じます。「子どもたちが自然に戯れる姿」は、まるで自らの原点である宇宙そのものと交信をしているようです。子どもの世界は果てしない「生命の神秘」そのものかもしれません!

カテゴリ:卒園生・転園生の皆さんへ!

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