貴重な篤志家
2024.06.29
おはようございます。
少し前ですが6.16の中日新聞「視座」に内田 樹さん(視座担当者の一人)の論評が掲載されました。「公私混同する人」、タイトルだけ見ると「公私に区別がつかず公共財を私物化する人」、「公権力を私利のために用いる人」を想像しますが、ここで話している人は「私有物が公共的に用いられることを好む人」を指しています。世間ではそのような人を「篤志家」と呼んでいます。最近では虐待やネグレスト下にある子ども、身寄りが無く貧困にあえぐ高齢者への食、生活空間提供、行き場のない子どもの私設図書館の運営等々、身銭を切って世間を支援する方がいます。
我福祉会にも長きにわたり、「日蓮宗のお寺で子ども食堂の食事を作る」を行っておられた篤志家がいらっしゃいます。50回をもって自身の年齢等を考え自らで活動に幕を下ろされました。元々大手の給食会社(カリヨン福祉会内 高齢者施設食事担当)での立派なキャリアを生かされた活動ですが、氏が心を込めた味とどこからも声がかかり頼られる姿は、まさに尊敬に値する「篤志家」です。心から感謝の言葉を送りたいと思います。また、今後も福祉会の方々(ほうぼう)でご活躍されるお姿を拝見できればと希望しております。ありがとうございました。
カテゴリ:生き方
「見通し」の大切さ!
2024.06.24
子どもたちは様々な環境に対し、自らの身体をコントロールしうまく動かし適応しようとしています。これは脳だけの判断ではできることではありません。むしろ先に末端が地形、形状、感触などを体験することで、その情報が脳へ伝わっていると考えられています。これが学習と言われる人間の成長には欠くことができない発達の過程です。
おそらくマット遊びは今日が初めてではなく、前年度から雨の日などに行っている活動だと思います。園庭にある築山とは異なり、柔らかでフワフワした感触は、自分自身の体重をどこへ持っていくのかを、体が掴んでいないとバランスを崩してしまいます。それなりの感触の見通しを持っているからこそ、思い切った動き(マット上を走る、転がる)に挑戦することができます。余裕ある表情も経験があるから故の笑顔、楽しさの表現なのです。
また「楽しいことの見通し」は、マットを運ぶなどの準備も皆で力を合わせ行うなどの行動に繋がっていきます。もちろん子どもにとっては物を運ぶことさえ「あそびの一部」です。ですが結果的に個々が「このマットで楽しみたい」といった動機を持ち、偶然にも行動が一致したときに、「皆で力を合わせる」ことは、ひとりではできないことも、「仲間がいれば可能になる」を経験することとなるのです。今の段階は完成された協力ではありません。しかし、「協力」という気高く、崇高な人間力は、幼い時から、今日のような経験を繰り返す中で培われていくものだと考えます。
これらの心の成長も、個々の子どもがやってみたいと思う遊びが元となっています。「あそび」は子どもたちの成長の元です。いわば我々大人の仕事と同じです。その権利を保障し、守っていかなければ人類の未来は危ういと思います。
カテゴリ:発達
あそびから学ぶ
2024.06.24
したにも 落ちたぞ!
うまくはいったようだね こうして物の大きさを学んでいます
今日も子どもたちの様々な様子が見られました!絵具という素材、水が混ざったときの変化、絵の具同士が作り出す様々な色等々、絵具という素材の感触と色の変化は子どもたちにとって、とても不思議に感じられる対象です。初めての感触、使い方に戸惑い、躊躇し「やらない」という選択肢もあってよいのです。いつの日かおもしろさを体感する日がやってくると思います。それまでは楽しみに待つことといたしましょう。
年少の子どもへの優しさ(一方的な配慮?)、それでも幼いなりに遠慮や気遣いをして、そっと「お返しする」かわいい場面、こども心の繊細さが映し出されています。子どもたちはこのような感情のやり取りを体験しながら、友だち同士の言葉や行動の方法を学んでいるのだと感じます。
最後は箱の中に木のナイフでしょうか?収納しようと掌で押し込んでいる姿ですね!形状が異なる箱とナイフをどうしても箱の中にしまいたかったのでしょう。少々無茶な感じもありますが、目で確認し入ると考えたと思います。上手に(偶然に)?斜めに置かれたことで、箱の中にナイフは収まりました。このように何度も試していると、ピッタリくることもあります。そこで長さ、幅、高さ、細い、太いなどの形状の違いを学んでいくのだと思います。
幼い子どもたちは自在に動かすことができるようになった手指を使い、様々を試します。長さを図るわけではなく、ほぼ直観でドンドンと思いをぶつけていきます。そして偶然にも思いが達成されたとき、深い満足感と次回への記憶として心の中に刻み込まれていくのです。
カテゴリ:発達