長嶋茂雄さん逝去
2025.06.09


昨日3日に現役時代は「長さん」の愛称で親しまれた長嶋茂雄さんが、肺炎のため89歳で亡くなられました。最後まで病や老いと闘い続け、闘志とユーモアにあふれた生き様は、プレーと同じで、豪快、一途、笑いに溢れた生涯でした。
私の少年時代中日ファンでありながら、長嶋茂雄だけは大好きで私自身も三塁手を何度も経験し、あの華麗なスローイングをまねたものです!そしてユニフォームの背番号は「3」、少年野球でも背番号「3」が重なり笑えるチームだったことを覚えています。過去のインタビューで「あなたは天才ですか?」の質問に「普通の人間です」と答えられた姿が印象的でした。プロ野球選手としてファンには苦しい練習を一切見せることなく、黙々と闘志あふれる一流の姿を見せ、生涯一途で懸命、誠実に生きた方だったと思います。だからこそ国民は「長嶋茂雄」を人間として愛したのだと感じます。今も懸命に1日2時間もリハビリに励む姿が目に浮かびます。私たちはそんな素晴らしい生き方が、人知れず地道な努力にあったことを忘れてはならないと思います。心からご冥福と感謝の気持ちをお伝えしたいです。
カテゴリ:スポーツ
子どもの自我と自己中心性
2025.06.01

「自分を強く主張する」、人生の中でこれほど「自己中心性」を発揮できる、また発揮しなければならない時期は、これから先それほど経験できるものではありません。自己主張は自分の言いたいこと、表現したいことをたとえ言葉が未熟な時代でも、自発的に自分を伝える意欲的な態度と言えます。
だから「しっかりと自分をつくり始めている」と捉えることが必要だと思います。親様として大人として「こまったな」と思うこともあるかと思います。しかしこの場面でもしトラブル以前に大人が止めてしまえば、自己の思いを主張する前に「大人の力」で気持ちのぶつかり合いすらなく事は通り過ぎていきます。
その事は子ども自身が頭を使い、感情が動き考えることを必要としません。つまりは大人が全部やってくれるので、今後も自己の感情を動かす必要もなくなるのです。これは「他律」を助長していくこととなります。「自立」し「自律」できる人格を持つためには、自分自身を自分勝手だろうが一度は表出することが必要です。
その行動によって反応する相手の行動は写真の通りです。「取り合い」が起こることでお互いが「怒り」、「悲しみ」といった感情に出会い味わうことが出来るのです。そして自分が抱いた感情(取った爽快感、取られた悲しみ)や立場がいつの日か逆転したときにこそ、何回かの場面の積み重ねで、はたと「気付き」が生まれます。しかし相手の身体を傷つけてしまいそうなときは放ってはおけません。ある程度争う場面を経験すれば十分です。
その後大人からの語り掛けも大切です。双方の気持ちに耳を傾け受け止めた上で、「こんな方法(ほかにも車があったよ、少し待ってみようか)もあったね」と目をしっかりと視て語り掛けてあげることは、大人の大切な支援だと考えます。たとえ言葉として伝わっていないにせよ、次も同じ行動であったとしても、真剣な大人の表情と目線、口調は幼い子どもたちにもしっかりと伝わっているはずです。
良くはない例です。大人が大きな声で叱る時、子どもたちは一瞬凍り付きます。大人の真剣で強い「怒り」が伝わってくるからです。子どもたちは何に恐怖を感じているかは一目瞭然です。「大人の強くて恐ろしい権威」です。大人の権威は子どもの心を委縮させ、大人に逆らえない弱さを思い知らせてしまいます。大きな声は必要ありません。真剣に「いけない」を伝える、「自分や友だちを傷つけるから」を表情と目線で伝えるので十分です。
でなければ「大人の権威」に従順で、顔色をうかがう癖が身についてしまいます。「自分で考える」がなくなり、権威ある人の言われるがままの人格となっていきます。極端な事例ですが最近の事件で「親に試験、勉強と言われ続けてきたことが、事件を起こした原因だ、親が悪い」と言い放った若者がいました。
「他律的に育つ」の恐ろしさを伝えています。だから自我の芽生え、本人の自己中心性が起こすトラブルは、とても貴重な体験なのです。誰にも左右されず自分自身の感情で起こした行動なのです。大人はそのような学びの機会を十分に尊重しながら、心身が必要以上に傷つかないようにすることにこそ心を向け、子ども心に寄り添うべきだと考えます。
カテゴリ:発達
子どもの目線!
2025.06.01

子どもたちの思うままの行動には心から驚き嬉しくもなります!私たち大人が「ここであそぶ?」と思うような場所(園庭の端のの段差)を巧みに利用する力を元々持ち合わせているのが子どもです。便宜上物をひっかける場所をDIYで作っても(もちろん保育園の写真、道具箱横のフックは計算し設置したものです。)、子どもたちは「ひっかける」そのものの行為を遊びとしてとらえているのです。
ですが大人が何もせず放っておけばその突起物は、子どもが気づいて利用するものとしては遊びが発展していきません。ところが一か所でも何かが吊るされていれば、子どもたちが認識しやすくなリ、次々と穴の開いている物をもってきてひっかけようとするのです。段差も同じです草を刈らず放置すれば、まずは段差を視認できず、踏み外すことによってケガに繋がります。
ですが、見えるように端だけでも草刈りをしておけば、安全であるばかりか子どもはあそび場に変化させてしまうのです。子どもは隙間が大好きです。そのことで事故も起こっています。なぜ隙間が好きなのでしょう?「はいってみたくなる!」これ以外にありません。でしたらその場所を安全な場所にしておくことが大人ができる環境設定なのです。
これを私は「環境準備」、「人的配慮」と考えています。子どもたちの発想、特に乳幼児期についてはこのような「仕掛け」を用意しておくこと、できれば「視覚」に訴えていく必要があります。子どもが気づけばあとは見守ればよいのです。大人が教え伝えることなど何もありません。何かに利用しようとする発想力は子どもの方が長けていることも多々あるのです。
この仕掛けの目的は?もちろん手指を何度も使い、全身をコントロール(背伸びをする・車から座った状態で手を伸ばす等)して身体能力を身につけていくこと、この穴とフックの大きさは?等の大きさの認識、諦めずに何度も挑戦しようとする心の強さを身につけていくために作り、そして子どもたちが園庭にやってくる前に吊るしておくことで「気づき」を狙った環境設定なのです。計算をすることが保育の神髄とも言えます。
子どもたちが環境のどんな面白さに「気づき」、「働きかけているか」を読み取る力を保育者や教育者は持つ必要があります。そのことが手に取るように理解出る時、子どもを心と身体の両面から支援できる方法は必ず見つかるのです。何となく過ごしていては、子どもの素晴らしい発達に対する希求を知ることはできません。
カテゴリ:発達