お知らせ

節分

2025.02.08



1日遅れの豆まき、昨日は様々な場所で「節分会」の行事が行われたようです。本物さながらの恐ろし気な様子に、度肝を抜かれた幼き子どもたちの様子が映っていました。真剣に泣く子をよそに大人は穏やかな笑顔で見守り、日本の伝統行事が滞りなく行われたことに安堵します。コロナ、インフルエンザ、胃腸風邪などの病気、航空機の墜落事故、大規模火災、戦禍、能登半島地震などの災害、様々な病、惨事が人間社会を襲っています。それこそ邪気払いが必要ですね。

子どもたちにとって「鬼」は、それぞれの発達段階なりに恐ろしい存在だと思います。元々は架空の生き物ですが、この様な存在を人間自身が作り出すことで、「やってはいけない」、「近づかない」、「さわらない」、「無茶をしない」、「甘く見ない」等を引き継いでいけると思います。

名古屋の海よりの地域では津波や高潮で「ここまで水に浸かりました」といった目印として「記念碑(伊勢湾台風の)」が立っています。これは人間が災害をすぐに忘れてしまうことに対し、「忘れてはならない」を目に見える形で伝え残しているものです。人間は悲しいこと、苦しいことも都合よく忘れ去ろうとします。その安易さを戒めたものであると思います。

「鬼」は恐ろしさの象徴です。他にも様々な伝説が日本に限らず世界に伝わっています。科学技術が進んでいる現代だからこそ、その意義について見直す必要があるのではないでしょうか?自然科学分野においては、人間にはいまだ想像つかないことがたくさんあります。人間そのものの存在ですらすべてが解き明かされてるわけではありませんので、「神」の領域と言わざるを得ない事象も数多く存在しています。

精子の冷凍保存、遺伝子の操作等々、人間が手を加えて本当に良いことなのかどうかは誰にもわかりません。しかし、自然の摂理というものは、人間の想像力をはるかに超えたものであることは間違いありません。だから子ども自身が自然の脅威や恐ろしいものが、この世には存在していることを知っておく必要があると思います。何でもかんでも理屈で解決することはできません。一番分からないのが「人の心」でもあります。「畏怖、畏敬の念」をなくしてはなりません。人間が奢る心を持つことに対し、自然の摂理は黙ってはいないでしょう。

カテゴリ:宗教・文化

孫パワー新年も衰えず!

2025.02.08

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おはようございます。
久しぶりに2人の孫を預かる週末、室内では物足りない1歳10か月の子を、「おんも」へ連れ出し公園で思う存分あそびにふけりました。いつもと少し異なる公園ですが、総合遊具(大小の滑り台等シンプル)で何度も何度も滑っているうちに、慣れ安心して自分だけで上り滑り降りもできるようになってきたため、万が一を考え私は階段からの落下にだけは注意し、写真も撮影できました。

そうこうしているうちに近所の小学生の兄弟(3年、1年)が母に連れられ滑り台にやってきて遊び始めました。孫は「待ってました!」と言わんばかりに兄弟に手を振ったり、ついて歩いたり大騒ぎです!いつもこうです。でも怖いもの知らずでかわいらしく突進していく孫に「たくましいな」と参ってしまいます。おにーちゃんがやることを真似し、他の乗り物や芝生の斜面、コンクリートの縁石一本橋歩き、立ち木くぐりなどやれることはすべて行いました。

体力もかなりついてきました。しかし昼寝をしていないため一抹の不安を持ちながら帰宅、おやつ、夕食と安定して過ごせたのですが、帰宅しようという時に、とうとう眠気とイラ立ちが元の爆発が起きてしまいました。何をしてもどんなになだめてもしばらく感情の高まりは収まらず、最後は強制的に車へ移動し漸く泣き止み、落ち着いて「さようなら」と手を振ることが出来ました。環境の変化や生活リズムの変化等、発達年齢によっては中々難しいですね。心と体を自分でコントロールするにはまだ幼いのです。これも成長過程の一場面ではありますが中々大変です。心地よい疲れとは言いませんが、毎日の育児はやはり計算できない難しさがあると感じます。若いからこそ乗り切れる、乗り切れたと我が身を振り返るのでした。

カテゴリ:子育て

子どもとの真剣勝負!

2025.02.08

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本日は保育参加ありがとうございました。園長が不在にてご挨拶できず失礼いたしました。小さくなればなるほどお子様にとっては父母様が第一となります。普段の保育そのものをご覧いただけたかどうかは分かりませんが、保育士からお聞きいただけたのではないかと想像しております。集団の中で過ごすことは日々新しさとの出会いです。ご家庭と集団生活で子どもたちの姿が大きく異なるのは必然です。大好きな父母様から離れ、保育園で精一杯生きている子どもたちの姿は、健気で強く優しくそして寂しさからの甘えが生じることが当たり前なのです。保育士は親御様の替わりはできません、しかし精一杯子ども心に寄り添うことは可能です。

昨日から今日の子どもたちの姿をみて保育を考えてみました。保育士が真剣になって隠れている姿は、まさに子どもと対等にやり取りし向き合う姿です。この姿こそ子どもの「やるよ!」といった意欲を引き出します。大人は子どもに負けない知恵と体力を持ち合わせています。その現実を目の当たりにした子どもは、「もっと、もっと」と心が躍り出すのです。ここにこそ保育士としての支援力が発揮されるのです。そしてその楽しさを観ていた別の子が「わたしもやりたい!」と集まってくるのです。ここからが教育の始まりです。立ち尽くすばかりでは、子どもは「楽しくありません」、「没頭できません」、「怪我のリスクも高まります」、安全確保だけを考えることは逆にリスクを増すことにもつながります。

もちろん怪我のない様に子どもと環境との相互作用を見守り、個々の身体力と行為を見つめる目線は専門家として必要です。また、玩具を使う子どもたちに「こんなやり方もあるよ」と励ます、提示するなどの導きも大切な支援です。この「子どもとあそびに没頭する(養護・教育)」と「子どもの安全を確保する(養護)」、「子どもの成長を見通した支援をする(教育)」は、バランスよく実践されなければなりません。偏っているかどうかをいつも心の中で自問自答すべきです。

よく考えてみてください。子どもたちは何故「親、先生に叱られる」ことがあっても、叱った大人に「あそぼう?」と誘いついてくるのでしょうか?それは「あそび」のときに真剣に楽しさを分かち合う人であることを良く分かっているからだと考えます。「遊ぶ時」も「叱る時」も私のことを真剣に考えて寄り添ってくれる!これがあるからだと思います。

昨今子どもの居場所問題が言われます。「なぜ自分の居場所が見つけられないのでしょうか?」まさに幼少期からの過干渉ではない、大人から関心を向けてこられなかった子どもたちの大きな心の闇だと考えています。そんなことはあってはなりません。子どもたちはもちろん親御さん、どんな人にも「心の居場所」は必要不可欠なのです。

万が一不幸にも子どもに安心できる居場所がないのであれば、社会が作らなければなりません。そんな世の中では本当はいけないのだと思います。

カテゴリ:教育

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